誠の心 - 永遠なれ!我が母校 倉吉市立成徳小学校 -

本格運用開始しました。 母校ネタが本旨ですが、京都橘…そしてそれ以外のネタ、なんでもござれです! 基本「自由」…でも「何でもアリ」ではないのでその点ご注意を。

カテゴリ: 趣味・その他




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こんにちは!
令和2年(2020年)…大晦日です。
今年もあと僅か…と言ってる間にも刻々と時間は迫ってますが(笑)

さて、今年もあれやこれやと話題いっぱいな年だったように思いますが
何より今年を象徴するワードと言えば

「武漢肺炎」

皆さん…お忘れですか?新型コロナウィルス、または新型コロナ肺炎なんかじゃありませんよ?
ましてや「COVID-19」??…なんじゃそれ!?ってな感じ。

あくまでも、これは中国・武漢が発生源の病原体なのです!
いつのまにやら中国に「忖度」して名称まで「中国」と言うイメージを払拭させるかの如き行為に及ぶとは…WHO…中共に媚売ってんじゃねーか?って感じ。

まあ、歴史的事実として発生源はどう転んでも「武漢」であることに間違いはないんですが、
だからと言って普通に考えたら「発生」した事自体を世界も批難している訳ではないと思うんですよね?それはどこの国・地域でも起きうることなわけで…。

まあ、そんなすったもんだあった挙句の今ですが、最近になってようやく「ワクチン」が開発され各国が接種し始めましたね!
どこまでの効果があるのか!?‥は、まだ未知数な部分が多いのですが、春先に発生して猛威を振るっていた頃よりは一筋の光明が見えてきた感がありますが、ここにきて今度は「変異種」なる新型の更に新型が発生したりと、コロナとの闘いはまだまだ先行き不透明なところが大きいですね。

GO to トラベル云々…と、経済活動を活性化させる施策も良いのですが、新規感染者の発生数を鑑みると、今やらなきゃならない事ではないだろ?と思うのは私だけですかね??

コロナ疲れだの在宅ストレスだのと言ってた連中が、逆に非常事態宣言が解除されて、普通に出勤しろとなった途端に今度は「出社ストレスがぁー!」だのと、意味不明な超絶身勝手発言をしていたのを思い出します。

結局何をしても、どう命じても「あー言えばこー言う」ってだけの話で、そう言った連中が人の事など一切気にも留めず、思うがままにあっちこっちで歩いて菌をまき散らしている…と言うのが実態なんでしょうね。

こりゃ、いつまで経っても終わりそうにない、まさに「無限ループ」!!

一年通してこれに終始したって感じの令和2年だったような気がします。

京都橘の話で言うと、既に皆さんご承知の通りで…
今期117期なんて結局この1年を通してほぼ「活動停止」状態でしたからね。

こんな年(期)は他には無かったのではないでしょうか?

先日の定演の際(オンライン配信)、最後の部長挨拶の時…
嗚咽しながら語っていた部長。
「6月に初めて皆で集まれて…あとは残った定演しかない…」
みたいなコメントがありました。

いつも通りの日常、季節の移り変わり…
そんな当たり前だったあれこれが激変したこの1年。

例年なら春先のさくらパレードから順次ブルーメの丘、
ブラスポ(ブラエキと言う人も居る)と
順調に各種イベントをこなしていきながら夏の合宿、
秋のマーコン…そして年末の定演!!と言った流れで過ごしていたはず。

いつもと変わらない事…が大きく変貌した年でもありました。

彼女達自身はブログ、YouTubeなどのコメントでも言ってましたが、
自分らを「可哀そう」と思われるのは嫌…と言うような事を述べていた
記憶があるのですが、やはりこの年寄からみるとどうしても

「今期の子達は、本当に気の毒でしかたがない」…としか申し上げられません。

これもある意味「普段経験出来ない事」なのかもしれませんが、
こんな経験はあまり歓迎できるものではありませんね。

甚だ気の毒でしかたがありませんが、どうか気を取り直して
残る高校生活を満喫しつつ、いい思い出をたくさん作ってほしいものです。


さて、今年1年を通して夏の終わりに1年ぶりに「京都橘」ネタの記事を更新しました。
それ以外の記事を併せてもほんの数点…ホントに「怠けて」ますねぇ~(笑)

読者(と呼んで良いのかどうか?)の方々には甚だ申し訳ありませんが、
まあこれを生業としている訳ではありませんからね!

こんな日本の片田舎…日本一の人口最小県に居住するオッサンの暇つぶし
程度にしか思っておりませんので、全国…いや今や海外にも膨大なファンを擁する
「京都橘高等学校吹奏楽部」のファン界の方々からすれば甚だ不謹慎な!!…
なんて事を思われそうな感じですが、本当の事だからしょうがない(笑)

往く年・来る年…
毎年この日になるとお約束のフレーズですが、
当ブログも「往く人・来る人」と言った感じで、
よく来られていた人が去って行かれたり、また逆に新たに訪れて頂いたり…と、
人の入れ替わりが目まぐるしい当ブログですが、それはそれで各々思う所があるわけで、
追うでもなく、誘うでもなく‥で今後も運営していくつもりであります。

まあ、一応念のために申しておきますが、改めて当ブログは…

「倉吉市立成徳(せいとく)小学校」の応援ブログですからね!(爆)

と言いつつ、母校のネタをここ最近は殆どしていないのが玉に瑕…
まあ母校ネタなんてそうあるものではないのも事実なわけで…(ここが悩みの種)

来年は母校ネタ、京都橘…の他に、何気に日常の事、趣味の事なども
掲載して行こうかな?なんて考えております。

まあ、京都橘ファン…特に橘情報目当ての人にとっては
「そんなもんいらんわ!」ってコトでしょうが、
別にそれなら全然スルーしてもらっても当方は一向に平気です。

何度も言いますが、
ここは「京都橘高等学校吹奏楽部の応援(特化)ブログではありませんので。

ってコトで、今年は妙な連中からの嫌がらせコメントもほぼ無く、
平穏な年が過ごせた(ブログとしては)1年でありました。
(いや~結構、結構!!・笑)

まだまだコロナも終息しない世の中ですが、早く元の日常が戻り、
京都橘の子達のみならず日本全国津々浦々までいつもの状態…
普通にイベントを観に行ける日が来ることを皆さんで待ち望みましょう。

それでは、みなさま…よいお年を。

2019年3月3日 ヤフーブログより引っ越し

2018/7/1(日) 午後 10:19


連投です!

重ねて、「その3」・・・ではありません!!
すみません、ネタは小出しに(笑)

さて、先に挙げました 裁判所再び! ですが、
最後の方では、少し興奮して倉吉&ご先祖批判に終始してしまいました。
年甲斐も無く申し訳ございません。

と、別に誰から注意されたとか、指摘されたとかと言う事ではまったくありません。
ただ、ちょっと言葉が過ぎたかも?と自己反省で・・・特にご先祖さまに対してはです。

私が私のこのブログ内で一方的に「悪者」にするのは「倉吉市役所」だけなので(笑)、彼らがいつの日か己の所業を悔い改めて「成徳小学校」に対する悪辣な陰謀・黒い計画を諦めるその日まで闘い続けます!!
(あっ!重ねて言いますが、あくまでも勝手な思い込み&私見・主観で言ってるので間違えないようにお願いしますね!・笑)

ここまでくると、「倉吉市役所」には今後も是非「ヒール」として悪に徹してもらわないと話が盛り上がりませんからね!!(爆)

とまあ、妄想・願望の話はこのくらいで。

さて、ちょっと先回の最後の方で過去の倉吉の見誤り事例などの件を述べました、山陰本線や、平成の山陰道などです。
山陰本線の場合は、時代が明治の話でもあり、当時の土地の有力者などの力がハンパなかったんでしょうね!ある意味仕方の無い話なのかもしれませんが、平成の山陰道などは全く「現代」の話ですからね!
もう少し粘り強く立ち回れば何とかなったかも?と思うわけです。
だって、あの浦安の内陸部からわざわざ数キロも北上して海岸線まで回り道していくというあのコース・・・どうみても不自然極まりないコース取りですよ。
で、これまた海岸沿いまで出てから10キロ近く走ってようやく北条のところから倉吉方面へいく高規格道路に乗る・・・行きつく先は出口橋近くの概ね西倉吉地域・・・だったら最初から浦安の大きく北上するあたりからそこへ向かって真っ直ぐ倉吉方面に路線伸ばせよ!!って思っちゃうんですよねぇ~。
第一その方が自然です。北条から倉吉市内までの路線を工事する予算と手間があったならそっちの方が余程アクセスがいいと思うんですが?
逆に「北条」の人達は、そんなところに倉吉市内にアクセスする高規格道路の入り口が出来たから何か今までより格段に便利になったんですかね?
せいぜい15分かかってたのが、10分になった・・・程度の事だと思います。

このように、
イメージ 1
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こちらも、先日「道」の功罪・・・ でも述べさせて頂いたのですが、東西から倉吉市内をぶち抜くような経路にすれば・・・
「此処を通らないと先に進めない街」にはなりません。
もちろん、既に9号線、山陰道も海側を走っているので、全く寄らなくても構わない立ち位置なのは変わらないのですが、此処まで整備されると逆に大栄・北条・羽合町方面には全く用事がない人はむしここちらを通る率が高いのでは?
もちろん、倉吉市民は常にバンバン使いまくる事でしょうし。
中には東伯、青谷方面まで通勤しておられる方も多くおられるかもしれません、
浦安から海まででて、また北条から倉吉に・・・と大きく「コ」の字(開いてる方が南向きですが)を描いて倉吉市内に突入しなくてはならない現状は、限りなく無駄以外のなにものでもないです。
実際、浦安あたりから下道におりて農高脇から市内へ入るコースと海まででて北条から乗って市内へ入るコースとでは、時間的にあまり変わりはないです。
むしろ、わざわざ海まで出させられる感満点な事に対する「ストレス」だけが蓄積されていく気持ちの方が強いですね。
この山陰道建設の際に、一体「倉吉市役所」は何をしていたんでしょう。
わからなかったんですかね?北条から市内へ入る道路が1本出来るからめでたしめでたし・・・だったんですかね?それがどのくらい面倒臭い事なのかを想像する事が出来なかったのでしょうか?国道だから国の行政の範囲で市行政としては・・・と言うのであれば、地元の自治体として何かもう少しアクションを起こして、路線を誘致するなりの活動を活発にしたらよかったのに・・・と思うわけです。
起こしたけど・・・ダメだった・・・と言う事ですか?
これ、50年、100年先まで関わってくる事柄だと思うんですけどね!?
・・・と、こういった部分が、先に 裁判所再び! の記事に挙げました「倉吉人」の特徴として先見の明が無い…行き当たりばったり・・・という部分です。
全てにおいてそうだ!!・・・と言っているわけではありません、もちろん私なんかより余程頭のいい、優秀な、大学も出て立派な人も大勢おられるはずなので、そんな頭のいいエリートの人達が、考え、検討して決定した事柄なのですから、間違いがあるはずが無い!!・・・と思いたいのですが、頭の悪い私でも「ん~これ変だろ?」とか「ダメだこりゃ」と確信してしまう事柄が結構多いんですよね。
何故なんだろう?と思うのですが、頭の良さとかではなく、恐らく元々持っている、DNAにでも刻み込まれているかのような「気質」なのではないでしょうか。

さて、少し話題を変えて。

白壁土蔵群に頼りきりな我が故郷「倉吉」ですが、最近は仇敵「明倫」小学校の旧円形校舎を活用したフィギア博物館?なるものがオープンして、多くのマニア&おたくの新たなる「聖地」と化しているそうです。
まあ、それはそれで結構なコトなのですが、何か我が故郷・・・他に観光資源は・・・
何か当たり前すぎてすっかり見落としている何かがありそうで・・・

「打吹城」・・・

あるじゃん!!!
これって見落としてませんか!?
足元ばかり見て、ふと見上げたら・・・欠けず崩れずそそり立つ「打吹山」がそこにあるわけです!倉吉は、そう・・・当たり前のように。
で!そのてっぺんには「打吹城址」があるわけですが・・・皆さん・・・見えます?
遠くから、外側から。
言っちゃ悪いですけど、全然見えませんよね。
地元の私達でさえ、普段気にも留めないくらい全く外側からはその痕跡・存在すらうかがい知ることが出来ません。
今、打吹公園から頂上まで伸びる遊歩道の途中に展望台があります。
私が成徳の頃は今のような「櫓」風な造りのものではなく、よく風光明媚な観光地にあるようなコンクリート製の2階建てのただの「台」みたいな展望台でした。
(当然、2階部分には屋根などありませんでした、まさに「台」ですよね)
これすら、最近は見る角度によっては周辺の樹木に遮られて存在すら確認出来ないこともあります。
そうなんです!一応倉吉は「城下町」なんです。
まあ400年も前に廃城となって、以来今日までほぼ手付かずな状態な訳ですが、元々がそんな歴史に出てくるような立派な城郭ではなかったのもありますが、一応あの地域の抑えの城だったわけで、「縄張り」もそれ相応の規模のものでした。
イメージ 3
とまあ、興味の無い方が見ると「これは・・・どう見ればいいんだ?」ってな具合かもしれませんが、大雑把に言うと、平坦面が大きいところにはそれなりの施設(居住用の建物やら櫓など)が存在してて、そこが攻め上がって来る敵に対する防御施設になるわけです。
その平坦な部分同士が周囲の施設と連携して、それぞれの弱点などを補完し合っているわけです。
ある平坦面の部分を攻めてくる敵に対して、その後ろ側に位置する平坦面の防御施設から弓矢や鉄砲を打ち込んで排除する・・・と言った具合です。
なので、普段気にも留めてなかった「打吹山」の頂上までの道のりの途上でもそれなりに当時の「縄張り」の残滓はあるんです。

ちなみに、この図を参考にして攻撃と防御、そしてそれぞれの平坦部の役割などを大雑把に説明致しますと・・・
イメージ 4
とまあ、全体図をみると概ねこんなところでしょうか?
ちなみに、攻撃側の赤矢印は「人・部隊」、防御側の青・緑矢印は火線(弓矢・鉄砲の射線です)。
まあ実際の戦闘というものはこんな簡単なものではなく、人間の知恵比べですからね!双方が死力を尽くして戦うわけですからこんなものではないはずです。
一応、判りやすく説明したまでで・・・さらにもうちょっと細かく言うと・・・
イメージ 5
こんな感じです。緑の矢印が出てるところへ攻撃をしているのですが、緑以外の陣地からも攻撃を喰らうわけです。
この時「敵」(赤矢印)は緑矢印に対して正面に向いてるので、それ以外の方向には横っ腹を晒しているわけで、まさに弱点なわけです。
防御側はそこを衝いてくるわけです。
この例では、今現在ある遊歩道に沿った、ある程度ゆるい斜面を登りながらの攻撃をしていますが、相当「横矢」を受けて損害を被るでしょうね。
では、攻撃方向を変えて山に向かって一直線に攻撃したら・・・
イメージ 6
これも攻撃正面が変わっただけで、それまで「横矢」を掛けていた陣地が今度は正面に、正面で防御してた陣地が今度は逆に「横矢」を掛ける・・・と言った具合に、敵の進路が変わっても、各防御陣地が連携して仲間の陣地を相互に助ける、そして敵の弱点である横っ腹・後ろを徹底的に攻撃して弱体化を図る・・・と言うのが定石です。
ちなみに、その2の図で言うと、一直線に山上に向かって攻撃しているので、移動距離自体は短いのですが、「急斜面」を登る為思ったほど速度が出せません。
もたもたしてる内に格好の的になって狙い撃ち・・・と言う事になります。
歴史に名を残すほどの功名もなく、地方のいち山城でしかない「打吹城」ですが、こんな程度の山城でもこうして説明するとそれなりに防御力があることがお判りいただけたかとおもいます。
今はただ、すっかり樹木に覆われてしまった山腹で遠目からは綺麗な「三角錐」形の山にしか見えないのが現状なのですが、実は今も当時の縄張りの痕跡が数多く残っております、もちろん「石垣」の一部もあります。
と言う事で、こんないい資源があるじゃないですか!!!
この際、無駄な樹木は伐採して、曲輪(平坦部の陣地)も整備して、一部残っている石垣群も綺麗に組みなおして、本格的に「打吹城址」として整備・管理したほうが観光客誘致にも効果的だと思うんですが・・・。
大体皆さん(倉吉人)、打吹山頂上にあがって・・・街並み、見えました!?
見えないでしょ!そうなんです、私も学生の頃は何度か頂上にも上がった事があるんですが、今まで頂上から倉吉の街並み(特に麓)なんて一度も見たコトがありません・・・って言うか、木が蔽い茂りすぎて周囲が全く展望が利かない、とても「残念」な頂上と化しております。
私が学生の頃でさえそうですから、あれから30~40年も経った今は更に相当な・・・と予測します。
それと、倉吉って・・・上から展望できる場所っていうのがホント少ないんです。
今は唯一、打吹山の展望台があるくらいなもので、高い建物なども殆どありませんし、観光をメインに推進しているとするならば、その街並みを俯瞰出来る施設は必須だと思うのですが。
となれば、倉吉には格好の俯瞰施設があるじゃないですか!!
「打吹山」(打吹城址)です。
打吹山自体をよく観光地にある○○タワー化してしまい、白壁土蔵群で街角を、打吹山山頂で街全体の景観を味わってもらう・・・どうでしょう。

山頂までは徒歩で・・・などと言わずに、途中まで車で行けるような専用道を作るか、箱根あたりにあるような「ケーブルカー」でも敷設すれば頂上まで楽々です。
白壁土蔵群から市役所、打吹公園などを散策する観光客が、その後頂上まで昇り、倉吉市街の街並みを展望する・・・大した規模の街ではないですが、やはり上からみる景色と言うのは違います。
東京、大阪その他国内の遠方はもとより、最近は中国・韓国などの観光客も多いと聞きますが、やはりそういった人達も、高いところからの眺めは何よりの旅の思い出になるのではないでしょうか?
当然、頂上周りも戦国期の「打吹城」の曲輪群、石垣等も整備して、国内の戦国マニアなども引き込めば更によし!!
一気に観光資源三昧になりますよ。
ありがたいことに、打吹城は戦国末期のいわゆる「織豊系」城郭ではないので、再建するにしてもさほど予算は掛からないと思いますしね。

※「織豊系城郭」とは
 戦国末期の織田信長、豊臣秀吉などが築城した城郭群の総称で、現代日本人の殆どが「城」と言うと「堀」がありその向こうには「石垣」がそびえ、白い漆喰で塗られた「天守閣」がある・・・と言うイメージを持ってますが、この基本スタイルを確立したのが、この2人です。
代表格は「安土城」「大阪城」などですね!
それ以前の「城」と言うのは、「堀」はありますが、「石垣」や「天守閣」と言うものを持つ城は少なく、どちらかと言えば「土塁」とか櫓のような物の方が多用され、
織豊系の城郭が、「石」の城と言われるのに対して、それ以前のものは「土」の城という認識を持たれています。
特に関東地方(北条氏)などの各城郭群はその殆どが「土」で出来た(もちろん塀とかは木材、漆喰なども使われてますが)城になります。

つまり、信長や秀吉は「城」と言うのもを政治的パフォーマンスに最大限利用したわけで、もちろん城であるからには、防御力なども当然兼ね備えてはいるのですが、それ以上に「見せる城」を意識したわけです。
特に戦国時代後半にいたるまでは、主に「山城」と言われた「山」自体の地形をそのまま利用して築城するのが普通でしたが、終盤の信長・秀吉の時代になると、その財力をフル活用して平地に「堀」を作り、石を切り出して石垣を積み上げ、巨大な天守閣を造る・・・何キロも離れたところからでもひと目でわかるくらいの規模の城を・・・すると相手には「あんなものが作れるだけの力を持ってるヤツとは戦は出来ない」と端っから戦意喪失って寸法です。
ある意味「戦わずして勝つ!」の典型例ですね。

さて、打吹城・・・織豊系の「石」の城ではなく、戦国期の「土」の城です。
石垣の部分も少しありますが、いやいや大阪城みたいな一面全部石垣と言うわけではないので、そんな費用も掛かりません。
天守台もあるって事は天守閣はあったのかもしれませんが、当時の事・・・漆喰塗りの大阪城や姫路城のような規模の物が立ってた痕跡はないですね。
せいぜい2~3階建ての小さな櫓規模の天守だったのではないでしょうか?
しかも漆喰塗りではなく、普通に板葺きだったと予測されますし・・・かなりご予算も節約できるのでは?(笑)
まあ、観光客の展望台も兼ねてますから、それなりな雰囲気の天守閣風展望台で中には売店もあればなおベターですね!!(笑)

ってな事で、先を読む力がない倉吉人・・・の一人の私の描いた50年、100年先の未来希望図・・・さて?如何に。


2019年3月3日 ヤフーブログより引っ越し

2018/5/27(日) 午前 0:16

ども!週末です。
1週間あっと言う間なのか長いのか?良く分からない年齢になって参りました。
何と言いますか、1日は長いのですが1週間はあっと言う間?みたいな(笑)

人生、残りの期間の方が短い年代になりましたからね。

さて、本日は・・・

「海軍記念日」・・・であります!!

「かいぐんきねんびぃ~?」と頭をひねる人が世の中の95%以上なのではないでしょうか?、いやもしかしたら限りなく100%に近いかも。

本日、5月27日は戦前は「海軍記念日」と制定されておりました。

「海軍記念日」とは?

明治38年5月27日、日露戦役において我が日本の「連合艦隊」とロシアの「バルチック艦隊」が日本海で会合、激しい砲撃戦の末これを撃滅し、この海戦の勝利によって日露戦役の帰趨がほぼ決定しました。

そして、戦役後この事を顕彰する為に記念日を制定したと言うわけです。
それが「5月27日」と言うことです。

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この海戦では、我が方の損害が水雷艇3隻のみというほぼ「ゼロ」に等しい損害で済んだのとは対象的にロシア側の損害は
戦艦8隻、海防戦艦3隻、装甲巡洋艦3隻、巡洋艦6隻 他全38隻中
21隻沈没、被拿捕6隻、中立国抑留6隻
と、ほぼ「全滅」に等しい損害を出し、海戦史上稀にみるパーフェクトゲームとなりました。
これについては、何年か前にNHKで製作・放映されたドラマ「坂の上の雲」などを見られたら理解しやすいかと存じます。
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しかし、凄いですよね!
明治38年と言えば、つい40年ほど前まで「ちょんまげ」結ってたんですからね!
自身に置き換えてみたら、東中にいた頃・・・みたいな時間関係ですね。
そんな「ちょんまげ」結って、腰に刀さして、移動は徒歩、馬、駕籠くらいしかない世の中だったのに、それから産業を興して科学を学んで・・・たった30数年で世界に冠たる規模の海軍を建設したんですから明治人の気骨や恐るべしですね。

ふと思うのですが、先の戦争ではわが国も(特に都市部)B29などの空襲で国中が焼け野原となってゼロからのスタートに近いような状態で、そんな中我々の祖父母・父母の世代の奮迅の働きによって此処まで復興・発展をしてきたわけですが、私はやはり「明治維新」の時の方が凄いと思うんですよね?「明治時代」と言うか・・・。
あくまでも私見ですよ?
と言うのは、戦後の復興云々・・・と言いますが、昭和20年の時点で既に世の中には電気もありますよね?飛行機もありますよね?自動車も、カメラも。
ガスも使ってましたよね?ラジオもあって映画もある・・・つまり技術的な程度は別としても既に今平成30年にあるものの基本技術は既に持っていた、存在していたわけです。(全部とは言いませんよ?無いものも確かにあるでしょうが)
ハンドル回して交換を呼び出して通話する電話、それが進歩してやがて「携帯電話」そして「スマホ」・・・と進化してます。
一枚一枚乾板または湿板を差し込んで、何十分も同じポーズで露出決めてようやく一枚撮影していた初期のカメラが、やがてロールフィルム(35mm)になり、それがカラーで撮れるようになり・・・今やフィルムなんて死語となって現在はデジタルでカードに保存・・・です。
つまり、今ある各種機器・設備などの元々の技術やらモノの初期・原型が復興する時ではなく、戦前からあったわけで、戦火で灰燼に帰したとはいえ、既にその事に対する知識や技術は持っていたわけですから、造るための設備や材料さえあればいくらでも再生できるわけです。

しかし、明治維新は違いますよね!何もないのです!!
「テレビ?ラジオ?」「スマホ・・・?」
ってな感じですよね。
テレビ・ラジオどころの話ではありませんよね?
まず一番肝心なところ「電気」がありません。
近・現代、特に現代では必須の「電気」そのものがない!その存在すら殆ど知らない、平賀源内の「エレキテル」くらいですかね例外は(笑)
幕末の黒船来航以来、海外の進歩、わが国の遅れ具合の現実に驚愕した雄藩がそれぞれ独自に先端技術の習得に励みましたが、そう簡単に習得できるものではありません。
幕末の動乱を経て中央政府が誕生して「明治維新」は成るのですが、ここからがようやくスタートに付いたと言う感じでしょうか。
しかし、冷静に見渡すとやはりあらゆるものがないない尽くし・・・拳銃1丁を造れと言われたら、外国製のモノを真似て職人がヤスリで削ってそっくりなものを造る事は出来たでしょう。実際そういう事例もあります。
ペリーが浦賀にやってきて、帰国する際、再度来るまでにお前達にこれが作れるかな?と1丁のピストルを渡したそうです。
当時としてはアメリカでも最新式の「コルト」(有名な銃器メーカーです)社製の回転式拳銃を置いていったそうです。
やがてペリーが再来航した時に、全く同じものを渡したそうです。
それは、日本の職人(鍛冶職人)が一から全て叩いて削って作り上げたそうで、元のモノよりも高品質なものだったようです。
ペリーもまさか世界の果ての東洋の島国に住む、変な頭した野蛮人どもに世界最先端の銃が作れるわけがない!と高を括ってたんでしょうね。
それが意に反して元のモノよりも高性能なものを作り上げてしまった・・・ペリーは密かに「いづれこの国とは戦争をすることになるだろう」と予感したとかしないとか?

とまあ、そのくらい個人単位、個品単位でのレベルの高さは持っていた当時の日本ですが、近代と言うのはそんなものではありませんよね。

1丁、2丁ではなく、何百、何千、何万と言う単位です。
それを寸分違わず同じものを大量に、短時間に・・・がキーワードです。
当時の「家内制手工業」の日本式ではまず太刀打ちできませんね。

しかし近代化をする為のあらゆるモノ、設備その他がまるでない。
知識も制度も追いついてない・・・そんなまさに「ゼロ」からの発進だったわけです。
だって、「鉄」ひとつ作るにもまずは製鉄所から造らなきゃならなかったわけで、しかもその造り方とかも幕末の雄藩が独自に作っていたものとはまるでレベルの違う代物を作らなければならないのにその造り方自体を知らない・・・。
「鉄」が作れなきゃ、軍艦も鉄砲も大砲も作れない、しかも「鉄」の材料の鉄鉱石にしても国内にはない!
まさに「ジレンマ」の連続だったでしょうね。
そんな苦闘に満ちた状況を経て明治人達は陸軍を揃え、海軍を建設し、金融・流通、司法、立法、行政の制度も整え・・・とまさに「近代」を作り上げていった訳ですねぇ~、いや~凄い。
そして40年後、世界最大の陸軍と強大な海軍をもつ大国と軍事力で対決すると言う壮挙に出たわけです。
まあ想像してみてください、仮にアフリカ辺りの奥地に住む半裸で過ごして、未だに槍とかで狩猟をしているような部族が、ある日開眼して色んな事柄を外から学び吸収しながら40年後に核兵器持ってて、ステルス機持ってて、偵察衛星持ってる相手と肩を並べて戦うようなものです。
「ちょんまげ」と「刀」差してる状況からスタートで(笑)
一体どれだけの努力をしたんでしょう、明治人・・・尊敬です。

戦後の焼け野原から70年、明治維新から日露戦争までの40年を遥かに超えてしまう年月が経ってますが、世界の最先端を行ってるか?と言うと全面的にそうだと言い切れない部分もありますよね。
しかも軍事力、軍事技術などは憲法の縛りその他国民感情などで超制限がありますから中々進歩しませんし・・・。
このままでわが国は未来も永劫に大丈夫なのか?とふと思う時があります。

さて、日本海海戦で「連合艦隊」の旗艦を務めた戦艦「三笠」
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栄光の勝利の余韻も冷めやらぬ同年9月になんと佐世保港内で火薬庫の爆発事故により一度沈没してしまってるんですねぇ~!
運よく沈んだのが軍港内だったので、その後引き上げられて修理され現役復帰しましたが、大正10年のワシントン海軍軍縮条約により「廃艦」が決定したのですが、その後関東大震災の際、応急修理箇所からの浸水により再び沈没(港内着底)、そのまま帝国海軍から除籍されます。
そのまま解体される予定だったのが、国民からの圧倒的な保存運動が展開され、「記念艦」としての保存を主要各国も承認、「静態保存」と言う形で永久保存になりました。
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「静態保存」と言う事で、「動態」ではないのです。

つまり「艦」をそっくりそのまま「丘」の上に上げて固定しちゃってるんです。
艦底部はそのまま土の中に埋まってる状態と言えば分かりやすいでしょう。
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当時軍縮条約で現役各艦も廃棄の対象となる艦が多数ありましたから、苦渋の決断として「動態保存」を諦めたんでしょうね。
動く「三笠」を残したが為に最新鋭(当時)の艦1隻分保有できなくなるのは、国防上由々しき問題でしょうから。
まあお陰で二度と・・・いや三だびの「沈没」の憂き目は見るコトはなくなったのですが・・・

「大東亜戦争」・・・敗戦・・・

終戦による進駐軍の駐留、そして日露戦争の仇とばかりに「三笠」の解体・撤去を強硬に求めるソ連!!!
全く・・・日ソ中立条約の約束破りで火事場泥棒決め込みやがった野郎がどの面下げてそんな事言いやがる!!!ってなもんですね。
で、ソ連のいう事を聞くつもりもあまりないGHQだったのですが、何もしないもの占領軍内の統制としては問題があると言う事で折衷案として三笠の上部構造物(砲塔・艦橋・マストなど)を撤去すると言う妥協策で凌いだわけです。
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これ・・・「三笠」じゃない・・・と言うより、既に船ですらないですよね。
船っぽい形をしたただの建物としか見えない。
どこをどう取ったら「妥協」なんだろう?何も妥協してない。
しかも、一応撤去した「砲塔・艦橋・マスト」などの上部構造物は近くの倉庫かどこかに保管してあったそうなんですが、戦後のどさくさで民間業者が売っぱらっちゃったそうで・・・もう何もない。
まったく・・・「皇国の興廃・・・」どころか「人心の荒廃」ですね。
三笠の部品を売り払う・・・え~い!この非国民め。

と、二度と沈没する事はなくなった三笠でしたが、まさかの見た目「三笠」じゃない!状態になるとは予想だにしてなかったでしょう。
ダンスホールだの水族館だの・・・エライ落ちぶれようです。
しかもその後客の入りもなくなってからは荒れ放題・・・だれも省みなかったその三笠を見て酷く憂う男が!

チェスター・ウィリアム・ニミッツ・シニア

「誰」?・・・ではないですよ(笑)

大東亜戦争時のアメリカ太平洋艦隊司令長官兼太平洋戦域最高司令官
「ニミッツ元帥」「ニミッツ提督」と言ったほうが通りがいいかも。

この男、大東亜戦争ではわが海軍を壊滅させた憎き敵なのですが・・・
個人的に「東郷平八郎元帥」を崇拝してて、この荒れ放題な状況をしり激怒したそうです!。
その後、三笠保存会の再興で復元運動が起こり、東郷元帥を崇拝するニミッツ元帥等の呼びかけ、資金寄付など多くの人々の尽力により、ようやく復元の為の国家予算もつき昭和36年復元工事完了により見事復活を遂げたのでした。
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この威風堂々とした艦容を!
菊の御紋がさん然と輝いております
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さすが、元「連合艦隊旗艦」

現在も戦前同様三笠公園として賑わっております。
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東郷元帥の銅像が脇に建立されてます。

ちょうど15年くらい前に、たまたま横須賀に行く事があって、時間が空いたので立ち寄りました。
今迄書籍とかでしか見たコトがなかった「三笠」が目の前に・・・何と言いますか、言い知れぬ感動が沸き起こりましたね。
今はもう動く事もできず、また武装も煙突もマストも、船体以外その殆どが後年の複製品・復元物ではありますが、かつては大海原を駆け巡り国家存亡の一戦を繰り広げた、まさに「本物」ですからね。

それと、実はこの三笠・・・

戦艦と言う艦種・分類には色々あるのですが、帆船時代の「戦列艦」など色々呼び方があるのですが、三笠などの日露戦争前の時代の戦艦を一般的に「前弩級戦艦」と言います。
1906年(明治39年)イギリスで「ドレッドノート」と言う戦艦が建造された時にその画期的な設計により、それ以前の最新鋭と言われてきた各国の戦艦群が一夜にして旧式となってしまいました。それだけの画期的性能を備えていたわけです。
前年(1905年・明治38年)世界最新鋭の戦艦で日本海海戦に臨んだ日本海軍の戦艦群も翌年にはその保有する全ての戦艦が「旧式」となってしまったわけです。
まあ、日本だけでなくイギリス本国でもドレッドノート以外の戦艦も「旧式」扱いなのは変わらないのですが、イギリスは生みの親の強みがあります。
各国ともその後ドレッドノート級の性能をそなえた戦闘艦の建造にひた走る事になるわけですが、この「ドレッドノート」の「ド」を関して以後の戦艦を弩(ド)級戦艦と呼称するようになるわけです。
ちなみに!「ドレッドノート」以後の戦艦は概ね「弩級戦艦」と言う呼び方になったのですが、更に後年その弩級戦艦を遥かに超越して建造された戦艦・・・「大和」「武蔵」は「超弩級戦艦」と言います。
さらについでに言うと「ヤマト」は「超弩級宇宙戦艦」です(笑)
すみません・・・話が反れました。

とにかく、なんと「三笠」は世界で唯一現存する「前弩級戦艦」なのです。

まあ、もう航行はできませんし、その外観も船体以外はほぼ復元品・・・果たして「艦」とか現存とかって言っていいのか分かりませんが、外国にももう存在しておりません。
ある意味、丘に上がって土の中に埋められてたのが幸いだったのかもしれませんね?
と言う事で、そんなところでも非常に貴重な歴史的遺物。
まさに「記念艦」なのです。
なんてったって、動かなくても「世界三大記念艦」の一艦ですからね。
しかも現存する。日本人ならもっと誇りに思おうではありませんか皆さん!!

そしてなんとこの「三笠」・・・
今現在の所管は・・・なんと「防衛省」なのです。
まあ、動かないので「艦船」ではなく、あくまでも「敷地内の工作物」扱いだそうです、しかも会計評価額は2円!!(に、二円?)それに対してその占有する土地は約2億5千万円だそうです。

これもまた冗談みたいな話ですね!2円のモノを置くのに2億5千万の場所代(笑)
しかし国家の命運を賭けた記念すべき歴史的遺物の評価額が・・・2円・・・
何か間違ってる・・・。

まあ、そうは言いつつ「工作物」であろうとなんであろうと、国防を担う「防衛省」の所管として今も(現役)でそこに存在している帝国海軍で唯一残った元連合艦隊旗艦「軍艦 三笠」・・・これからもずっと祖国の行く末を見守っててください。
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2019年3月2日 ヤフーブログより引っ越し


2018/2/21(水) 午前 0:32


新旧生徒館3-1000

さて、市役所の悪巧みでは、年甲斐も無く激昂?(笑)してしまいました、失礼致しました。

話題を変えて。

なにやら、成徳や東中・・・ましては倉吉とは全く関係の無いようなネタですが、
まずは掲載画像をみてください。

上下2枚組みの画像ですが、これを見てなにかわかりますか?

間違い探し!!!・・・ではないのですが、明らかにこの画像の中に違いがあります。

まあ、簡単と言えば簡単ですが。


実はこの画像、いわゆる「海軍兵学校」(現海上自衛隊第一術科学校)の画像です。

「海軍兵学校」・・・言わずと知れた、我が帝国海軍の象徴のようなところです。

実は私、若い頃とつい数年前に社員旅行で見学旅行に行ったコトがあるです。

まあ、この画像を見ての通り、有名な赤レンガの生徒館とか、とにかく時代を感じさせる重厚な建築物が多数あったので、この手の建物が大好きな私には非常にいい場所をチョイスしてくれたものだ!と当時の幹事には感謝です。

さて、今回特に話をするのは、画像上下ありますが、どちらも白いほうの建物についての話です。
海軍兵学校1号生徒館(西生徒館)と言う建物なのですが、実はこの建物昭和13年に建てられたそうですが、老朽化等により全面改修という事になり、更にその後の調査等で全面建て替えと変更になり、全く新しく建て替えられたそうです。



新旧生徒館2-860


 平成17年に完成と言う事で、まだ建て替えてから13年ほどしか経っておりません。

が!・・・よく画像を比較してみてください。
どう思います?

今、こうして真相をバラしたからこそ、「ああなるほど」と思われる人も多いかと思いますが、ネタばれ無しにみたら、「何故同じ建物の画像を並べてるんだ?」みたいに思われる方が多いかと思います。

そうですよね!私も若い頃に行った時と数年前に行った時とは建物自体が全く別物だと気づくのに時間が掛かりました。
案内係の方の説明で気づいた始末です。

そうなんです、これ建ってる場所、位置も旧建物と全く一緒の場所に、しかもほぼ同じデザインで建築してあるんですよ。

これって、ある意味凄くないですか!?

よくある、ビフォーアフターで、リフォームなら外観を変えずに中身だけ!とか、外面だけ化粧板とか葺きなおして見た目そのままで・・・みたいな事はありますが、これはその類とは全く違って、全面建て替え・・・つまり、旧の建物は全て壊して、また基礎から新たに造った建築物です。
新たに造るのに、またわざわざ旧のデザインそのまま(全くそのままではないですが)で建てると言うこの「拘り」。

さすが我が帝国海軍!!!・・・の末裔(笑)と言ったところでしょうか。

此処まで、つらつらと書き連ねましたが、何が言いたいかと言うと、成徳も折角新たに校舎を建てる事になったなら・・・是非これを真似して欲しかったですね。

旧のデザインをほぼそのまま踏襲して、中身、建物としての機能は今の時代にしっかり合わせてある(採光、耐震基準、居住環境、照度その他、現代の建築基準に合わせてあるそうです)、ただ・・・その旧のデザインをそのまま踏襲したい!・・・しかし、全くそのままでは現代の建築基準に適合しない・・・と言う矛盾・ジレンマに相当悩まされたそうです。
また、国家機関でもありますから、建築予算は全て国家予算となります。
戦前の帝国陸海軍だったら、国軍のご威光で予算を相当分捕れたんでしょうが、今の自衛隊では立場弱いみたいで、財務省辺りが幅を利かせて予算渋るらしいです。

「何故、昔のデザインで建てなくてはならないのか?」、「その形に何の意味、役割が合って、予算を投入するに値するどんな効果があるのか?」みたいな、ほぼイジメに近い問答が延々と繰り返されたそうです。

旧のデザインに固執することなく、あっさりと現代風なデザインであればあっさりと決定・裁可されたんでしょうが、海上自衛隊は一歩も引かなかったそうです。

国家の歴史とともに歩み、多くの英霊を拝した伝統ある海軍兵学校の建物であるからこそ、その先輩たる多くの御霊と現在に繋がる自衛官との精神的な支柱として変わらぬ姿を保たねば・・・と言う一念だったそうです。

また多くの兵学校卒業の存命者もありとあらゆる支援を惜しまなかったそうです。
殆どのかたがもう90歳を越えるような方々ですから、今の現役世代の社長や会長など小僧みたいなものであったでしょうから、関係企業や省庁に出向いて「おい、ちょっと頼むわ!」・・・みたいな(笑)。

戦後あらゆる方面で活躍された卒業生の方の陰ながらの支援は多分絶大なものがあったと思われます。

これをみると、成徳も今回新校舎を新築しましたが、何とかならなかったのかなぁ~・・・と思うのは私だけなのかな?と。

今回リニューアルした校舎は減築ではなく、まったくの新築だそうです。

と言う事は、一度更地にしてますよね。

ならば・・・全くの更地にしたならば、いっそのこと鉄筋つくりでも構わないから「白亜の殿堂」校舎をデザインそのままで作ればよかったのに・・・と思ったんです。

もちろん、現代の基準に合わせて耐震性や居住性、採光性や防火基準など現代の基準を考慮しつつ外観その他は限りなく「白亜の殿堂」で!!!・・・と。

取り壊した時代は、ちょうど高度成長期。
古いものはドンドン壊して、これからはモダンな近代的なデザインで時代の先端を!・・・的な風潮だったから、壊しちゃったんでしょうね。

それが今どうでしょう・・・玉川沿いの白壁土蔵群・・・今やそれを補修整備してまで伝統的景観を保持して観光誘致に躍起です。

あの時、誰か先見の明をもって死ぬ気で訴えて校舎残っていたら・・・白壁土蔵群と相まって見事な伝統的建築物群の一角をなしてたでしょうね。

写真でしかしらない私が「写真」でみているだけでも、相当立派な建築物ですもん。
「海軍兵学校」の建て替えの事実を知れば知るほど、何とかならなかったものか・・・と忸怩たる思いに駆られる今日この頃でした。

せめて、模型でも作ろうかな?(笑)



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