誠の心 - 一致団結!倉吉市立成徳小学校卒業生-

本格運用開始しました。 母校ネタが本旨ですが、京都橘…そしてそれ以外のネタ、なんでもござれです! 基本「自由」…でも「何でもアリ」ではないのでその点ご注意を。

カテゴリ: 倉吉市内のあれこれ

2019年3月3日 ヤフーブログより引っ越し




※平成30年10月7日「追記あり(画像あり)」

※平成30年9月30日
「追記」あり、最下段に記述。(緊急)

ども、つい先日まで夜も寝付けないほどの猛暑・熱帯夜だったのが嘘のようにすっかり涼しい季節になってしまいましたね?
まあ、とは言いつつも日中はまだまだ暑い日が続いてますが、それでも7月・8月のあの「動く」事すらできないほどの猛烈な暑さの日々に比べれば全然です。

お友達等には伝達していたのですが、急遽の転居(いわゆる引っ越し)となり、その作業その他で日々悪戦苦闘…いやいや、引っ越しって奴つぁ年寄りにはホント厳しいイベントです。
おまけに多忙過ぎてこちらの更新もままならない…と言い訳して、実は京都橘のネタもそろそろ尽きてきたって感じですかね?
まあ「偽物」でしかも(もどき)のやることなんて所詮そんなもん…って思ってる方が確実に1人いるというのが今現在確認されております(笑)
なんてったって「偽物」ですから!!(爆)

その間も、おかしな奴がまた性懲りもなくやってきたり…と、中々アグレッシブ?な日々ですが、本日は地元ネタです。

なので「偽物」表記は今回も「無しよ!」…です(笑)
ちなみに「成徳ネタ」でもないので、今回も「永遠の1番」画像も表示も「無し」です!(笑)

今日は、サクッと流して終わりますが、

先日、倉吉市の昔をあれこれネット等で調べている内に、ある画像がヒットしました。
イメージ 1
こちらは、旧・打吹駅前通りと今の銀座通りとの交差点付近を撮影した画像です。
画面左手中央付近にあるちょっとモダンな建物は平成の現在も存在しております。
交差点奥、左角に恐らく「リポビタン」と言う大きな看板が掲げてある建物は現在も同位置で営業されている「小林薬局」さんですね!
画像右手手前に、店の軒先にヤカンやら鍋やらが野積み&吊るしてある、どこからどうみても「金物屋」さんにしか見えないお店があります。
店名は不明ですが、この画像をよくみると…「歩道」が無いんですよ。
市内の目抜き通りと言うのに、まだこの時代には歩道が整備されてない時代だったんですね?。
画面中央には路線バス(日の丸バス?)が走っておりますが、やはり歩行者や各店舗などが商品を軒先狭しと店先に並べるからドンドン道路の中央寄りに寄ってしまってますね。
あっ、ちなみに久々の「なんちゃって着色」なので、先ほど「日の丸バス」と表記しましたが、これも確証はありません!ただ、この当時はまだ市内を走っていたのは「日の丸」だったような記憶があるもので…(間違いだったらすみません)

ただ、この画像のようないわゆる「ボンネットバス」と言うタイプのバスには実は一度も乗った事がありません!!(笑)
私が物心ついた時分には、すでに今現在と同様の(初期のものですが)キャブオーバータイプのバスでした。
ただ、型式的にはキャブオーバータイプなのですが、ボンネット時代と変わらず、また車内には「運転手」と「車掌」さんがおられました。
私、当時は「車掌」が「社長」だと聞き間違えてたので(笑)、「バスって凄いなぁ~1台ずつ社長がいるんだ?」って本気で思ってましたからね!(まあ幼稚園児ですから)
それに「床」は船みたいに「木の板」張りでしたね。

運転手と車掌のペアでの運行でしたので、当然入り口と言うか出入口は1か所しかなく、概ね車体中央部にありました。
今のワンマンバスと同じ乗り口の位置ですが、乗り降りの際は車掌が切符その他料金の授受をしておりましたから、そこだけの乗降口でしたね。
なので、今のワンマンバスには当たり前のようにある、前部の降り口などは存在しませんでした。
って事はそこは当然「座席」があるわけで、バスの一番真ん前の「特等席」だった訳です!(笑)。
私の母は「旧・羽合町」(現・湯梨浜町)の出身なので、小さい頃によくバスにのって羽合町に行ってました。
今もそのバス停自体は存在しておりますが(宮川町バス停)、当時はバス停前には「山口電器」と言う電気屋さん、そして隣には「からさわや」と言う洋菓子?パン屋?…と言うお店がありました。

話が逸れましたが、そうして宮川町からバスに乗車するのですが…その際はその一番真ん前の「特等席」に必ず座ってました!どう「特等席」かと言うと…特に小さい幼稚園児などからすると、バスのフロントガラスなんてまさに巨大ガラスなわけです!(大人からしても大きいですけどね)、するとその一番真ん前に座ると顔の前10センチくらいのところにガラスがあるわけです…もう一面大パノラマって感じで迫力なんですよ。
一番前の席にはフロントウィンドウ手前に手すりが床から伸びてて、それに掴まりながら一路羽合町までの旅路を満喫しておりました。
つまり「運転手」さんの目線とほぼ同じ距離で前方を展望できるという、幼稚園児にとってはまさに「夢」のような席だったわけです。
しかも、姿勢によっては運転手さんよりも更に前方に乗り出して前を見ることができる席だったんですこれが(笑)
今でこそ羽合町(湯梨浜町)まで道路もすっかり整備されてあっという間に到着ですが、当時は…う~ん…?どうだったでしょう?主観的には1時間ちょっとくらい掛かったような??まあ小さな幼稚園児からしたらホント長旅って感じで楽しい思い出です!。
でも小学校の低学年を過ぎるくらいになると、いわゆる「ワンマンバス」の時代に突入してきて、車掌さんのいるバスがドンドンなくなっていったのはさみしいものを感じましたね。
ただ、それはそれで、今度は逆に新しもの好きな「倉吉人」ですから、ワンマンバスとはなんぞや!?…ってなもんで、早速乗ってみる機会が巡ってきました。
まず、一番驚いたのはもはやお約束で先刻承知のはずなんですが、やはり「車掌」さんが居ないって事でしたね!
腰のあたりに大きな「がま口」みたいな運賃カバン?(名称を知らないのですが)をぶら下げて、乗客の応対をしていた姿はもはやどこにもなく、以前車掌さんが立っていた位置には何やら変な箱が…。
イメージ 2
「整理券」

「なんじゃそりゃ?」ってなもんでしたよ!

乗ろうとすると何やらその箱から妙な紙片が!…番号のみ記載されたその妙な紙をじっと眺めていると運転手さんから

「それ取って乗ってごしない!」(乗ってください)と。

初めて手にする「整理券」…

「なんだ?このペラッペラの薄い紙は?」

ってなもんで、山陰の…しかも倉吉なんて超ド田舎の小学生からすると、まさに未知との遭遇的な出来事だったわけです。

今はもうはっきりとは覚えてないのですが、確か車掌さんがいた時代は切符も鉄道の切符と同じようなしっかりとした硬質な紙の切符だったような?

そっちの方はすっかり忘れてしまったんですが、この整理券の紙のペラッペラ感だけは妙に覚えてるんですよねぇ~…。
田舎の小学生にはインパクト強すぎたんですかね?(笑)
「こんなので大丈夫なのか?」…みたいな。

そんな小学生の心配をよそに、バスは通常運行を続けます!(当たり前ですが・笑)

そして、次に驚いたのは乗降口が増えてた…と同時に、例の「特等席」が無くなっていた事でした。

車掌さん時代は中央の乗降口で車掌さんが切符の発券・回収をしてましたからその1か所だけでしたが、ワンマンになってからは今のワンマンバスの定位置となった運転席左側最前列の部分に降車口(反対もあるらしい)が出来てしまったんです。
まあ、もはや平成の今現在走っている全国のバスのスタンダードな形の配置となってますが、そうなると?…件の特等席はもはや…まったくその影もなく、今やその状況を記憶しているのも、おそらく今現在50歳前後の方々以上の世代になってると思います。
そして、車内をあれこれ見渡してると…あるんです。例のものが…

って言うか、今だから「例のモノ」なんて言えるんですが、当時は(初ワンマン時)

「これはなんだ?」みたいな(笑)

辺り一面やたらに「ボタン」があるんです!(爆)

そう「降車ボタン」

「次停まります!」って言うあれです。

でも「次、停まります!」ってアナウンスが入るタイプのものは、もっとずっと後年の事で、一番最初のファーストワンマン(個人的に)の時はこれでした。
イメージ 3
まさに「ブザー」のボタンって感じで、ひねりもくそもないですね、これは(笑)

押したら、ただ「ブーッ」って音が鳴るだけ(笑)
味も素っ気も無いって正にこの事?って感満点ですが、このブザータイプも数年の後には…

こんなに立派に進化しました!!(笑)
イメージ 4
どうです!ボタンを押したら電球が光るんですよ!!(まあ今となっては当たり前の装備なんですが)

まあ、ボタン押したらたかが電球が光るだけの他愛のないものなのですが、呼び出し音も以前のブザータイプと違って「ピンポーン!」って感じでちょっと軽快な音色に代わってましたね。
「次、停まります」とかのアナウンス音付の降車ボタンが登場するのはこれのもっと後の話です。
そして、バスと言えば有料です!(これも当たり前ですが)
有料と言う事は、降りる際には料金を払わねばなりません!
そこで乗客が注目するのが…

「運賃表」

最初にワンマンに乗り出した頃にはこんな運賃表でしたね。
イメージ 5
ん~なんともレトロ感満点って感じなのですが、区間の切り替わりのポイントを過ぎると同時にロール式の数字の書かれた幕が順に回転して現在位置での料金を示すと言う機構的にもかなり「アナログ」な運賃表でしたね。
イメージ 6
ちなみに、中の構造はこんな感じです。
なんかメチャメチャ簡単そうな内部構造に見えますが、コンピュータやらその他のない時代にこんな機器を考案した方は凄いですよね。
上下2本のローラーで巻き取りながら表示するんですから。しかも表示面がたわまないような仕組みを施されていたことと思います。

ちなみに?
こちらは現代の運賃表です(ポピュラーなタイプ)
イメージ 7
すべて電光表示式で、料金等の切り替わり区間を超えると瞬時に数値等が切り替わります。
私だけかもしれないのですが、以前の「ロール式」の時よりも何か妙に見づらいというか見えにくい?ように感じるんですよね?個人的には。
それに、ロール式のあの切り替わる時にくるくる表示布が移動しながら枠にはまったところで「ピタッ」と止まる動作がなんともアナログで好きだったんですけどね。
文字の大きさもそれなりに大きかったので、見やすい感じがしたのですが…他の方はどうなんでしょうね?。
ただ、ロール式も使っている内にどうやら表面の文字の印刷面が擦れてくるのか?たまに数字がかすれてしまって読みづらい表示の時があって130円なのか180円なのか?戸惑う事が少なからずあったような記憶があります(笑)
まあ、それはそれでご愛敬なんですけどね。

そして、いよいよ目的地に降りる際、車掌時代と一番違ったのがこちらの…

「運賃箱」

と言う新しいキーワードのアイテム!!
イメージ 8
いやいや、懐かしいですね!
特に50歳前後から60歳くらいの人には思い出深いのではないでしょうか?
私が初めて「ワンマンバス」に乗った時もこのタイプの「運賃箱」でした。
画像を見ての通りで、上部側面に黒い握りのついたレバーがあるのですが、乗客が上方からお金を入れると、いったん底に落ちて、それを運転手が目視で確認をしてからレバーを操作するとお金が落ちていた底が抜けて下の集金箱に溜まっていく…と言った仕掛けのアイテムでした。
最初の頃はその動作なりがなんとも面白くて運転手のレバー操作など繁々と見入ってました(笑)
このタイプもしばらくは続いてたように思うのですが、いつの間にか今よく見るタイプのコンベア式になってましたね!
イメージ 9
今現在はこんな感じでお金を投入する部分の底が「ベルトコンベヤー式」になってて逐次運ばれて下に落ちていく…みたいなものが主流です。
上記画像はあくまでも私が日常でバスを利用するときによくみた(はず)タイプのものなので、全国各バス運行会社等でそれぞれ独自に各メーカー製のものを搭載しているでしょうから、すべてがこのタイプと言う訳ではありません。念のため。

ちなみに
これはうろ覚えなので確証・断言はできないのですが、私の記憶の限りでは当初は運賃箱だけだった記憶があるんですよね?
上記画像にある現在の主流のコンベア式の運賃箱だと最初から「両替機」が一体となったタイプなのですが、最初にワンマンに乗った時って…そんなものは無かった記憶があります。(記憶違いかもしれませんが)
ただ、しばらくしてからそのレバー式の「運賃箱」の隣に…

「両替機」

なるものがくっついて装備されてたんです。
イメージ 10
今の「コンベア式」と違って一体化されてない感じ満点ですね!
恐らくしばらくしてから小銭の問題で多々苦情がきたのではないかと?
で昔なら車掌さんが対応していたのが、ワンマンですからバスも運転して、両替まで…となるととてもじゃないが運行上問題があるって事で開発されたのかもしれません(勝手な想像ですが)
で、元々の「運賃箱」にくっつけるような形でこちらの「両替機」を併設した…ってところなのではと想像するんですけどね。
ただ、この円筒型の両替機…
当時はなんともこの形が斬新に見えて、しかも仕上げのせいなのか?超精密製品のように感じて、しかも円筒型って言うのがメカっぽくて興味深々でした。
どういった内部構造なのかは皆目見当もつかないのですが、おそらく一部電気仕掛けを併用しつつも多くの部分がメカニカルな構造なのかな?と想像するんですけどね。
モノづくり日本の職人がまだまだ普通にその辺にゴロゴロと転がっていた時代の製品ですね!

初めて「ワンマンバス」と言うモノに乗ってすでに50年近くの年月が経とうとしております、この間バスの設備・装置等も日進月歩!!…
なんとも牧歌的な運賃箱(なんてったって手動ですからね!・笑)から始まって、今や何かのSFアニメにでも出てきそうな装置のような運賃箱なりその他の装備…進歩って凄いですね。
この夏、プチ帰省した際に最初の古写真の場所に行き現況を撮影してきました。
イメージ 11
最初の画像とほぼ同じ場所・アングルで撮影したのですが…な・なんと!
偶然にもそこに「日の丸バス」が!!!
もちろん「平成」ですから「ボンネットバス」ではありませんが、バスも街並みもおおよそ60年近い時間の隔たりがあり、すべて激変している中で、画面中央の交差点の左手前角の建物だけは当時とほぼ変わらない姿でそこにそびえ建っておりました。
高度経済成長期を乗り越え、昭和、そして平成…バブルも乗り越え、来年は「平成」すらも乗り越えてまだまだこの街並みをずっと見続けていくことでしょう。
ただ、最初の画像と今現在の画像を比較してると、確かにバスも街並みも当時よりも全然洗練されて近代化?され、街も綺麗に整備されてはいるのですが、どことなく「寂しい」感じがするのはやはり少子高齢化と言う現代日本の病魔がこんな田舎にも如実に及んでいる証拠なのだな…と
市内の目抜き通りなのに車道と歩道の区別もなく、ヤカンや鍋が所狭しと軒先に並べてある元気のいい「昭和」の息吹も今はいずこへ?…と言ったなんともやるせない気持ちになった夏の日の出来事でした。

※「追記」(緊急)平成30年9月30日
どうもです、この記事ただの私のワンマンバス初乗り記事なんですが、どうやら多くの方が同じように懐かしんでおられるようで、かなりの表示数を示しております。
「京都橘ネタ」以外でも見て頂けているのだと嬉しく思いました。

さて、緊急の追記と言う事で、ただならぬ気配?…と言う感じですが、特に倉吉市出身者&成徳地区出身者は是非ご確認を。
先日、こちらの記事を立ち上げてご覧頂いておりましたが、特に一番最初と最後の「旧打吹駅前通り・銀座通り交差点付近」の両画像ですが、こちらに写っておりました、戦前からあるモダンな建物…実は数日前所要で実家に帰省した際に、銀座通りを通っておりましたところ、な・なんと!!その建物に工事用の外幕が!!!

「何事!?」と思い、慌てて車を停め撮影した画像がこちらです。
イメージ 12
既に夕暮れ時だったので、露出が暗くてわかりにくいかもしれませんが、先日撮影した場所とほぼ同じ場所で撮影致しました。
イメージ 13
こちらの外幕ですが、工事等の際によく飛散防止で設置されているものだと思われますが、これは…もしかして?「取り壊し」??
まさかと思い、少し観察してみたのですが、屋根部分に注目していただくとわかるのですが(画像ではわかりにくいかもしれません)既に「屋根瓦」が撤去されて骨組みのみのような状態でした(暗かったのと・見えづらかったのでハッキリとは確認できませんでしたが)
状況的に、もはやこれは「解体」かと思われるんですが、どうなんでしょうね?
先日こちらの記事で、昭和、平成、そして来年はその平成も乗り越えて次の世代へ…と記述した直後のこの出来事…先般掲載した(撮影した)画像が奇しくも現役?最後の雄姿??となってしまったのでしょうか。
解体となれば…この後帰省してももはやこの地上には存在しません。
「成徳」の「白亜校舎」と同じ運命をたどるのでしょうか?
倉吉市役所の事です…「古い建物は危ないから早々に撤去せよ!」などと言う指示でも出したんですかね?(やはり倉吉市役所には悪者になってもらわないと気が済まない私・笑)
とまあ、そっちは冗談ですが、解体・撤去…もしそうならば、また一つ倉吉の歴史と街並みを見守ってきた歴史的な建物が消滅するわけです。
私がこちらのブログを立ち上げて以降、古い資料を探してあれこれ他の方のブログなどを巡っているときも、こちらの建物はかなりファンの間では有名で、倉吉訪問の際の散策のコースの1つにもなっていたようです。
戦前のモルタル造りのモダンな建物として、旧打吹塗料の建物などと共にその筋のファンには見所だったんでしょうが…つくづく残念です。

倉吉出身者、成徳地区出身者で、外地(特に県外永住の方等)に住まわれておられる方々…また一つ思い出がなくなってしまいました。
(って言うかまだ未確定ですけどね、後日確認してみます)

※追記 平成30年10月7日
ども、最新の追記となります。本日所要で倉吉の実家に帰った際に先般から懸念していた状況を確認しに行ってまいりました。
イメージ 14
お盆の時からの連チャン画像です。
工事の進捗状況がよくわかりますが、そんなことよりも…
解体と言う現実にショックを隠しきれません。
イメージ 15
今現在このような状況となっております。
ただ…先日気づいた時はほぼ1週間前、その前から既に解体などは施されていたみたいで、屋根瓦、野地板などは外されていたものの、屋根の骨組みなどはまた残っておりました。
が!現代の技術をもってしたら、この程度の建物の解体に1週間以上も掛かっているという事になんとも妙な気持ちにならざるを得ません。

まさかの「リハウス」?劇的ビフォーアフター的な結末を期待したいのですが…。


2019年3月3日 ヤフーブログより引っ越し


2018/7/1(日) 午前 1:07


ども!

「その3」・・・ではないです(笑)

お楽しみにしている方?・・・
残念~!!!(波田陽区風に)

さて、ブログ開設からあっと言う間に5ヶ月近くも経とうとしております。
早いもので、あっと言う間に7月です。
段々こちらも蒸し暑くなってきて・・・夏がホントに大変です。
元々が汗っかきなもので、若い時分にはパワーで乗り切れたのですが、もう50も過ぎて老齢になってきましたから、お天道様には敵いません。

ここ数年前から思ってるんですが、多分私は・・・「夏」に死にますね(笑)
脱水か何かで・・・と本気で思ってますから。

とまあ、私の死期などどうでも良い事なので、置いといて!

さて、本日はま・さ・か・・・の「裁判所」ネタです。

もういいだろ?裁判所は・・・と言う声があちこち(誰だい?)から聞こえてきそうな雰囲気をネットの向こうからヒシヒシと感じますが(気のせいだろ?)
最近恒例の「成徳小学校創立120周年記念誌」をめくってると、最後の方にまた気づかなかった写真が掲載してあったので、本日はそれを引用させて頂きました。

前回と前々回・・・は(再びじゃなくって、三たびでしたね!失礼)空撮画像でしたが、今回は人目線です。
イメージ 1
この光景が一番記憶にあるシーンなのではないでしょうか?

先日の既出 給食室・・・の「上」 の画像で言うと
イメージ 2
路肩に駐車している車の位置辺りから撮影されたものと思われます。

こちらの画像でも既に言いましたが、当時はまだ成徳前にも裁判所前にも「歩道」が整備されておりません。
私、この先の「倉吉幼稚園」へ通ってましたので、当時は毎日(休日以外)成徳の前&裁判所前を横切って通園しておりました。
しかし、以前も申しましたがこんな車道と歩道の仕切りが全くない道路を幼稚園児が先生の引率の元とは言え、よく事故にも遭わずに卒園することが出来たなぁ~?と今更ながら驚きですね。
平成の今の世なら速攻で行政が叩かれる事必定!!って感じです。
まあのどかな「昭和」だったわけです。

さて、裁判所ですがこちらも既出  今日こそ、裁判所!  でも申しました通り、私は「旧裁判所庁舎」が大のお気に入りだったわけで、今の倉吉裁判所庁舎はまったく興味がないです。
今風で軽~いタッチの建物なんですが、それはそれで変に威圧感を与えないようにと言う配慮なのかも知れませんが、人を裁く所ですからね!
「威厳」「威圧感」・・・何が悪い?って思ったりするんですけど、私。
逆にそうじゃないと人なんて裁けないだろ!?・・・と。

と言う事で、旧庁舎大好きな私なんですが、本日の画像はきっと当時私の目線でみたのと同じアングルの画像となります。空撮なんて普通日常的に見るコトなんてないですからね!!
イメージ 3
そうそう、こんな感じでした。
この入り口の「車寄せ」の上に被さるように庁舎が出っ張ってて、前面の柱群が「国会議事堂」っぽくて、この「重厚感」が大好きでしたね。

正に此処こそ、人が人を「裁く」所だと。

そして今日はもう1件
イメージ 4
当時の地方事務所です。
地方事務所・・・って?って感じですが、成徳小学校創立120周年記念誌からの引用になるのですが、そちらの説明文にはそれしか記述がなくって・・・地方事務所?
もしかしたら今で言う竹田橋脇にある「総合事務所」の前身みたいなものですかね?
まあ、詳細不明なので断定するのも気が引けるのですが、一応「地方事務所」と言う事で・・・よく判ってないのですが、押し通します!!(キッパリ・笑)

ただ、こちらの地方事務所の方は、幼稚園時の通園で毎日前を横切って増したから、建物自体はよく覚えております。
実は1回だけ、この中に入りました。
小学校の3年生か4年生?くらいだったかな??
夏休みかなにかに、「昆虫採取セミナー」?みたいなイベントがあって、その会場が此処でした。
確か入って直ぐ脇の大部屋みたいなところで、開催されてたんですが、そこには蝶や蛾などの標本箱が何十箱も陳列してあって、あのなんともいえない独特の臭い・・・防腐剤と言うのか何と言うのか表現しにくいのですが、何十箱もあって、それぞれに防腐剤入れてあったんでしょうね?
かなり大きな部屋でしたが、なんとも言えない生々しい臭いが充満しておりました。
そのイベントは、朝集合して昼過ぎまで打吹公園やら周辺の山に入ってとにかく「昆虫」を採取してきて、昼からはその捕獲してきた蝶やら蛾その他の昆虫をその場で指導スタッフの手ほどきを受けて「標本」を作る!・・・と言った類のイベントでした。
私も、2・3匹「蝶」を捕獲してきてたのですが、いきなり「標本をつくるので、まず生きてる虫を殺します」と普通~に言われてちょっと衝撃でしたね。

蝶を殺すには、胴体を指で左右から挟んで・・・結局「絞殺」、絞め殺すんです。
呼吸?を出来なくさせて。
簡単と言えば簡単なのですが・・・蝶の胴体ってかなり柔らかいんですよ!
で、そこを指で挟んで力を入れて・・・するとプニッて感じで凹むんですよ、胴体が少し。すると暫く羽をパタパタさせて、その内絶命です。
もう・・・あの感触・・・今でも思い出せますよ。
なんとも気持ちのいいものではありませんでした。

それ以来、あまり「昆虫」には興味がなくなりましたね!
とは言いつつ、トラウマではないので触るのは別に平気ですが、時折なにかのきっかけで思い出すと、気分悪くなりますね。特に指が覚えているあの感触が・・・。

こちらの「地方事務所」の建物はいつ取り壊されたのか?殆ど記憶にないのですが、旧裁判所庁舎と同時期に解体されてないと思ってるんですが、どうだったんだろう?
私の中では、裁判所の建て替え後も数年存在してたような記憶があるんですけどね。

ご覧になった方で、覚えてる方がおられましたら是非教えてください。

しかし、成徳の「白亜校舎」もですが、こちらの「旧裁判所庁舎」そして、「郡立図書館」・・・などなど、もう少し先を見る目が倉吉人にあったならば、白壁土蔵群オンリーに頼りきりな今の状態ではなく、同じ伝統的建造物保存地区の中でも江戸とは一線を画した明治の伝統的建築物群として、かなりの観光資源になっていただろうに・・・と思うのは私だけだろうか?と思う今日この頃でありました。

倉吉人・・・私もそうなんですが、どうもこの「倉吉人」と言う人種・・・先見の明がないというか、先を読む力が弱いというか・・・意外と行き当たりばったりな気質があるみたいです。
鳥取県中部の片田舎で、風光明媚で人情味豊か、田舎で人の心が温かい・・・などとどっかのキャッチみたいなステレオタイプの言い回しで誤魔化してますが、
山陰本線施設の時も、平成の山陰道敷設にしても、まったく先を見てないですね!

既出 「道」の功罪・・・ でも述べておりますが、鳥取・米子と違って倉吉は「絶対そこを通らないと先に進めない街」・・・ではないのです。
反対に、「特に用事がなければ通らなくても困らない街」・・・なのです。

悲しいかな、これが現実です。
倉吉に用事が無ければ、別に湯梨浜~北栄~琴浦・・・と簡単に横切られてしまいます。素通りすらしてもらえない立地なんです。
そういった地理的特性をよく考えてあれこれ施策しなくてはならないのに、何もせず放置するか、目先の利益のみ見て100年先のことを想像出来ないのが「倉吉人」の特徴です。(もちろん私も含みます)
稲が煙の煤で汚れる、火の粉が降って田んぼが燃えるから北条、由良の方に線路通せ!!・・・とゴネて無理矢理路線経路の変更を余儀なくさせて、数十年後・・・鉄道による街の発展の効果に気づいて慌てて倉吉線の開設要請・・・どこまで身勝手なんだ。
と我が祖先達には申し訳ないのですが、そう思わざるを得ない事例が山ほどありますからね。
平成の山陰道もしかりです。
どうか、この先これだけ情報化社会とかした現代なのですから、もっともっと50年、100年先を見通せる人材を輩出して欲しいですね、我が故郷には。

2019年3月3日 ヤフーブログより引っ越し


2018/5/24(木) 午後 10:21


ども!
本日は「小ネタ」ですが・・・

先日から、故郷は倉吉さんと言うお友達のブログからお客様が何度か足を運ばれてきておられるので、ちょっとだけそれにまつわる?ネタを。

なので、超個人的お話ってことで。
(ってか、このブログ自体が超個人的なんですけどね!・笑)

その方は、成徳小学校に2年生まで在学して、その後は「小鴨小学校」に在校された経歴の持ち主だそうで、「小鴨小学校?」・・・なんて殆ど私の人生の中で縁が無かったのですが、よくよく思い出したら・・・生涯でたった一度!!小鴨小学校へ行った記憶があります。
今日は小鴨小学校の紹介(って程でもないですが)も兼ねて、その時の

「小鴨小学校潜入作戦」の全貌を披露いたします

ってまあいつもの「大袈裟」なタイトルなんですけどね。

さて、小鴨小学校の現況です

イメージ 1

いや~ビックリですね!
凄くきれいにリニューアル?建て替え?されてて私の記憶にある小鴨小学校ではありません!!(笑)
ついでにこちらも・・・

イメージ 2

こっちはもっとビックリです。
そして更に・・・もっとビックリなのは・・・

イメージ 3

もう「なんじゃこりゃ~!!」って感じです。

そして、なんと更に更に・・・

イメージ 4

もう言葉も出ません・・・
とても小学校とは思えないこの各種施設・・・昭和は一体何処へ?って感じですね。

こちらの一連の画像群はネットで検索したらヒットしたので・・・
すみません、ちょっと掲載させて頂きました。
不具合あったら連絡ください。

さて、ついでにこちらも発見したので掲載です。

イメージ 5

う~ん・・・他校の事とはいえ、取り壊しの現場と言うのはモノ悲しいモノがありますね。すみません、画像タイトルで「その1」となってますが、他のモノはサイズが小さすぎたので掲載は止めます・・・なので、その1しかありません。

さて、上記画像にあります「倉吉市立小鴨小学校」ですが、鳥取県倉吉市中河原に所在する市立の小学校です。

私の校区(成徳)とは隔絶してるので在校中はもちろん、中学・高校時代も全く縁のない学校なのですが、人生で1度だけ「潜入」した事があります。

私の初期の記事にある2人の冒険と言う記事で登場した相方がいまだに腐れ縁で続いているのですが、こいつが6年生の時に両親が北野に家を建てて引越ししてしまったんですが、あと1年残っていると言うことで「校区外通学」していたのです。
随分遠くになってしまったんですが、土曜日の午後当時は「半ドン」だったので、そいつと一緒にバスにのって北野まで遊びに行ったんです。
最初は新築の家でもあり、当時としては憧れの個室なんかもある「贅沢」な環境に羨ましさを感じながらあれこれ遊んでたんですが、その内飽きてきて外で遊ぶ事になったのです。
すると、そいつの家の近くに流れる用水路沿い遥か彼方の田んぼの中にそびえ立つ建物を発見したのです。
「おい?あれは何?」と聞くと、
「ああ、小鴨だがん」
「小鴨?小鴨小学校?」
「そそ」
こんな会話が交わされたと思います。
すると続けてそいつが
「そうそう、K先生の作った彫像が庭にあるらしいで?」
と言う話を振ってきたのです。

K先生というのは当時の私達の担任で、前任地かどうだったかは失念したのですが、とにかく以前「小鴨小学校」に赴任していて、その在任中にその彫像を作成されたらしいのです。
元々「図工」の先生でしたから、ああなるほど!って感じでした。

「じゃあ、ちょっと見に行ってみよーぜ!」

ってな話になって早速出発です!!
はっ!・・・しかし・・・ここは「敵地」・・・ではないですね。
明倫校区ではないので(笑)
とは言いつつも、全く知らない校区内でのことですから何が起こるか予断は許されません!。
ちょうど運よくその日は土曜日・・・今は死語と化している「半ドン」だったので、恐らく生徒も校内にはいないだろう?とふんでました。
用水路沿いの細道をトボトボと歩きながら近づき、いよいよ学校前まで迫りました。

イメージ 6

いよいよ「潜入作戦」の開始です。
さて、どこから忍び込もうか?・・・などと高度な事を考えるでもなく、ごく普通に「門」(正門だったのか、通用門だったのかは覚えてません)から入りました!
案の定半ドンの土曜日の午後(殆ど夕方近く)、生徒の誰一人いるわけでもなく、周辺の住民にも怪しまれる事もなくまんまと潜入に成功です!

・・・って小学生が小学校に、しかも「門」から入って怪しむやつもいないですよね!

まあ賛否両論?(笑)あるでしょうが、続けます。
無事潜入に成功した私達は一路その「彫像」があると思われる「中庭」?を目指しました、何故「中庭」に彫像があると思ったのか・・・まったくの「当てずっぽう」です。
多分、そんな銅像やらモニュメントみたいなもんは大抵植木やらいっぱい植えてある庭みたいなところに違いない!と勝手に思い込んでただけなんですけどね。

一応、周囲を警戒しつつ中庭目指して進んでいくとどうやら沢山の植木やら花壇のような地域にたどり着きました。
何気に周りを見渡しているとその中になにやらそれらしきモノが!!!
高さ的には・・・う~ん・・・150cmくらいの高さだったような気がするのですが、彫像っぽいモニュメント風のモノが確かにあって、柱に貼り付けてある表題をみると確かにそこに「K先生」の名前が表記してあったのです!!!。

「おおぉぉぉ!!!発見したぞ!」

ってな具合で、気分はもう「川口浩探険隊」でしたね(古い)

しかしそこは小学生、目的を達成したら飽きるのも実に・・・早い!(笑)
誰かに見つかって怒られる前にさっさと脱出!とばかりに脱兎の如く撤退完了です。

当然、出る時も元来た「門」から密かに(密かって言うのか?)脱出しました。

その後、またそいつん家で少し休んで、バスにのって帰宅しました。
以上、生涯ただ1度の「小鴨小学校」体験でした。

しかし、小鴨小学校の近況画像を見て、随分と変わったんだなぁ~と思いました。
私の記憶にある小鴨小学校は確か校舎の外壁が「茶色」っぽいタイル?か何か、とにかく成徳とは全然違う造りで、校舎2棟が向かい合ってその間に中庭?がある・・・みたいな造りだった記憶があります(間違いだったらすみません)
どちらかと言うと「上灘小学校」みたいな構成ですね。
当時は周りには殆ど建物・民家もなかったので遠くからみると、本当田んぼの中に凛とそびえ立って見え、荘厳な感じがしたのを覚えてます。
今は少し宅地化も進んでるっぽいですね。

故郷は倉吉さんのところからのお客さんの話がなければ、きっと永遠に「小鴨小学校潜入作戦」の件は思い出さなかったでしょう(笑)
備忘録と言う事で、感謝・感謝です!!



2019年3月3日 ヤフーブログより引っ越し


2018/5/13(日) 午後 9:20


あっと言う間の土日でしたね。
如何お過ごしでしょうか?

さて、先日「郡立図書館」を記事にしましたが、その後なんと!!!

新たなる画像を発見したので、追記と言う事で。

イメージ 1

なんと、灯台元暗し
とは言ったもので、成徳小学校創立120周年記念誌の後ろの方のページに掲載してありました(笑)

今回も一応必殺技の「なんちゃって着色」なので出来栄えは笑ってコラえてです。
でも、何となくそれっぽいでしょ?(笑)

でも、凄いですよね!改めて詳細が判る画像を見ると。

成徳の頃、長休憩のときに「持久走」がありました。
校庭をスタートして地下道をくぐり、歩道に出て左折、裁判所前を経由して倉吉幼稚園を左折、そしてそのまま公園に上るコースをひたすら登って「郡立図書館」跡の前を通ってそのまま羽衣池までの遊歩道を駆け抜けて・・・と言った小学生にはかなり「キツい」行事がありましたね。

詳細なコースはこちら!

イメージ 2

いや~今みても結構な距離かも?(笑)
でも実際距離的には・・・?1キロあるかないか?くらいですかね。
もう忘れてしまいましたが、確か15分くらいで帰ってこい?・・・みたいな。
この辺りは失念しちゃいましたので、勘弁です。

で、この持久走の時、倉吉幼稚園側からの上り坂が正に「地獄坂」でありまして・・・そこをようやく登りきると「郡立図書館」があったわけです。

上記画像では外壁がまだ綺麗な「白色」で塗られていて建設当初の華麗さをまだ伝えていますが、私が成徳にいた頃にはもう既にこの「白色塗装」もすっかり剥げ落ちて、地肌の木肌がもろ出てましたから、全体的に「灰色」っぽい色合いに変貌しておりましたし、木自体もすっかりボロボロになってましたから「廃屋」に近い感じでした。
そして、デザインがもろ「洋館」造りですから、そこまで荒れ果てるとかなり「不気味」さ満点でしたね!!!!
だから持久走の時も、なんとも嫌~な気分でした。

しかし、図書館として建築されたんですが・・・図書館ですよ?
素朴な疑問で、何でわざわざあんな山のてっぺん(頂上ではないですが)にそんな公共施設を作ったのか?と言う疑問が。
公園と言う物自体が公共施設ではありますが、散策、散歩等を目的とした公園はよいとしても、図書館と言うほぼ学問・勉強に供する施設をわざわざあんな丘の上に独立して作る意図が不明で???
通常なら人通りの多い場所とか、少しそれよりも離れてもアクセスのよいところ等が一般的だと思うのですが、隔絶した丘の上に・・・う~ん・・・なんど考えても不思議だ。

しかも、先回掲載した「郡立図書館」の遠望画像でもありましたとおり、当時はどうやら羽衣池方向からの遊歩道は、今のような羽衣池から倉吉幼稚園裏まで一直線では繋がっていなかったようですし・・・。

イメージ 4

イメージ 3


と言う風に、羽衣池からのアクセスだと当時はまだ存在してませんが、今の猿ケ島の方を一回経由(回り道)してからでないとたどり着けないのです。
倉吉幼稚園裏から公園へ登る坂の最後のところで、成徳前の道路から一直線に伸びる長い坂(階段)が今もありますが、恐らく当時はこの郡立図書館へ行くのに最も使われていた経路ではないでしょうか?。

今はすっかり更地になってしまってますが、当時は勉学に勤しむ学生さん達がえっちらおっちらこの坂を上ってたんでしょうね?
今やそんな学生の姿どころか、普通に小学生(子供)の姿さえ滅多に見れなくなった少子・高齢化の現代日本の現状が、こんな片田舎にまで影を落としているのだと感じたこの頃でした。



2019年3月3日 ヤフーブログより引っ越し



さて、GWもあっと言う間に終わってしまいました。
久々の仕事が・・・ダルくて仕方がないですね。
1日が永遠のようで・・・小学校の時の時間の流れもそんな感じで、やたら1日が長く感じたものです。
学年が上がる毎に段々時間の流れるペースが速くなって、成徳を卒業する時に5コ上の姉に「中学校の3年は早いよ!ついでに言うと高校の3年間はもっと早くてあっと言う間!」と言われたのを覚えております。
正にその通りでしたけどね(笑)

ってことで、本日のお題は

「郡立図書館」

・・・毎度の事ですが、「何処?」・・・ですよね!(笑)

イメージ 1

この画像をみて「あっ!」って思った人は、かなりの年配の方だと思います。

私も最初あれこれ倉吉ネタを探していたらこんなものを発見したのですが、先般「招魂塔」の記事のときにも触れましたが、当時は「倉吉名所」なるシリーズ物の絵葉書シリーズが発行されていたみたいで、これもその中の1葉みたいです。

「倉吉名所」・・・とあるからには、一体此処は?と当初見当も付かなかったのですが、何気に見ている内に・・・「あれ?どっかで見たことあるぞこれ!」と思いあれこれ記憶を辿っておりました。

「あっ!これ!!!・・・」

当時(昭和40年後半)打吹公園の羽衣池の方から上がる遊歩道がありますが、そこを上りきると左手に猿たちが住んでる猿ヶ島の檻があって、そちらに行かずにそのまま真っ直ぐ倉吉幼稚園の裏手の方へ抜ける通路がありますが、ちょうど下り坂に差し掛かる手前右側に洋館建ての半分くらい朽ち果てたような洋館が建っておりました。
もう外壁などは塗装もなく木の肌が剥き出しのままで、洋館造りなので更に不気味さ満点!!!そんな建物があったのを思い出して。
でも、当時からそこが一体なんだったのか?と言う話も聞いたコトがなくて、小学校当時の私としては、ただの「オンボロの不気味な洋館」くらいの認識でした。

そんな今にも朽ち果てそうな洋館造りの建物でしたが、当時ここの1階隅に自衛隊の募集事務所がありました。
何故そんなマニアックな事を覚えているかと言うと、実は私の叔父が自衛官で当時倉吉に赴任していて、正にその場所に勤務していたのです。
実家が近いので(私の父の弟です)、倉吉在任中はちょくちょく泊まりにきていましたが、いつもその事務所に備え付け?かどうかは分からないのですが、「ジープ」に乗ってそのまま家の前に停めてそのまま実家に泊まり込んでたので、そりゃもう~目立つ目立つ!!(笑)
小学生の私など、ジープなんて珍しいので勝手に入り込んではあれこれ弄ったり・・・と、まあ今の平成の世の中だったらやれ勤務時間中に云々、公用車(になるのかな?)を勝手に私用に・・・とかって重箱の隅攻撃を喰らいそうな出来事でしたが、当時は誰が何を言うでもなく、ごくごく当たり前の日常・・・みたいな感じでした。

そんな叔父が、その不気味な事この上ないその建物に普段は詰めていると知ってからは、「人がいるんだ」と思ってちょっと不気味さが半減した記憶があります。

イメージ 2

イメージ 3

一応、図と画像で位置関係を表示です。
思い出した方、結構いるのでは?(笑)

先日帰省した際に、実際に現在の現地の状況を確認・撮影してきました。

イメージ 4

イメージ 5


と、当時と近況を並べてみました。
一応可能な限り同じアングルで撮影を試みましたが、あまりにも地域の状況の変貌ぶりが激しくて、必ずしも同一ではない事をご承知ください。

当時の画像を見てみると、この遊歩道を上がってきたところからの遠望を撮影されてる風で、今のように遊歩道がそのまま繋がっているような感じではありません。
おそらく近況画像手前の遊歩道は後年造成されたのかもしれませんね。

イメージ 6


最初この絵葉書を見つけて、もしかしてこれはあの公園の所にあった、あの不気味な洋館かも?と思い、またまた登場我が父(笑)

「お父ちゃん、昔公園(倉吉人は打吹公園の事をわざわざ「打吹」をつけて言いません・笑)のところにボロボロの洋館が建っとったがん!?あれなに?」

と聞いたところ、即答で

「ああ、あれはな、図書館だったわい!」・・・と(笑)

「郡立図書館?」

「ああ、そうそう!昔は倉吉町だったけーな」と。

「で、戦時中は「青年学校」の校舎になっとっただけど、戦争が終わって青年学校がなくなってからはもう誰も住まんようになってあーなっただがん!」

との事でした。さすが齢90近くになる成徳卒業生の記憶は鮮明です!!!

って事で、やはりこの写真(絵葉書)は紛れも無くあの

「超不気味な洋館建て」の建物・・・正体は「郡立図書館」でした。

しかし、倉吉町だったんですが、何故に「郡立」?
なんか昔はこの辺り(倉吉)は「久米郡」とかって言ってたそうで・・・

となると?正式には「久米郡立図書館」って事になりますね!!(笑)

今の感覚だと逆に「一体何処だいそこ?」ってなってしまいそうですが・・・

小学校の頃、あんなに不気味で本当に何か出そうな雰囲気満点のボロ家でしたが、
創建当初のこの華麗な姿を見ると、人が携わらなくなるとこうも変貌してしまうものなのか?と言ういい見本みたいな感じです。
これも、残して保存していれば明治の建物、歴史的建築物として倉吉の観光資源のひとつになったであろうに・・・と思うと残念ですね。
記憶の彼方にあったこの建物ですが、当時(小学校)の記憶とともにあの頃が蘇ります。

イメージ 7

今はこうして跡形もなく撤去されて片鱗も残ってはいませんね。
橋田邦彦先生の碑だけが寂しく鎮座しております。

イメージ 8


また、昭和が遠のいた気がした春の日でした



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