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2019年3月2日 ヤフーブログより引っ越し




東中記事第1弾は・・・

「下足場の木」です

なんとも不思議なタイトルかと思われる方もおられるかもしれませんね。

私は、成徳を卒業後、そのままエスカレーター?(笑)式に倉吉東中へ進学しました、
昭和50年代初めの頃です。

もう何十年も前に、私が通ってた時の校舎は全て取り壊され、敷地はそのままに校舎地区と校庭地区がそっくりそのまま逆転して今の状況になっております。

ちょうど学校の敷地中央に桜並木があり、そこを境に校舎と校庭が入れ替わったと表現すればいいのでしょうか?
まあそれは見事に我々の時代の痕跡が一切ないくらいの見事な取り壊しっぷりです(大笑)。
なので、こちらも成徳同様「母校」なのですが・・・いまいち入れ込めないと言うか、ノスタルジー感がないというか…まあ身勝手な話しです。

さて、その今の校舎を「新校舎」と仮称していわゆるその前の我々が過ごした校舎を旧校舎と呼びます。
旧校舎時代に現役だった人たちの何人かは覚えていると思いますが、当時土手側に倉吉市の給食センターがあって、主に成徳校区の一部と上灘校区からの生徒の大半が給食センター側の通用口から下足場へ通学してたのではないでしょうか?
私もその一人でしたが、当時その下足場の入り口に大きな1本木が立ってました。
何の木だったのか?樹種はさっぱりわからないのですが、なにから何まで我々の時代の痕跡が綺麗さっぱり無くなってしまった今の東中の敷地内に中央の桜並木の桜の他に、ほぼ唯一と言っていいくらいの現存する当時物・・・それがこの「1本木」です。

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 先日、帰省した際に、成徳ネタで知り合った方に現状を報告する為、ちょうど帰省する機会があったので、立ち寄ってみました。

当時も高い木だという記憶があったのですが、あれから30年余・・・いや、40年近くなりますが、更に当時より高く凛としてそびえ立っておりました。

「ああ、お前はあれからもずっとそこに居て、ここの変遷を見てきたんだな・・・」

と過ぎ去った青春の日々を思い出しその場を後にしました。

成徳と違い、本当に何もかも無い・・・と言うのは、やはり悲しく、寂しいですね。