2018/9/14(金) 午後 0:02
時空を超えて…
2018/9/14(金) 午後 0:02
2019年3月3日 ヤフーブログより引っ越し
ずいぶんと怠けておりました・・・
と言うか、年度末から年度明けにかけて例年超多忙になり、おまけに本年度は
業務・配置の変更があったもので、引継ぎやら申し送りやら・・・なにかと追い込まれて
おりましたので、つい更新を後回しにしてしまいました。
ちょくちょく確認はしてたのですが、こんな私の他愛のないブログでも定期的な訪問者さまがおられるようで・・・すみませんでした。
と言う事で、満を持して・・・と言いたいところですが、これといったビッグなネタがあるわけでもなく、まあそれはそれなりに・・・。
さて、先日の彼岸の時に正月以来となる帰省をしまして、ここぞとばかりに成徳その他の画像を撮りまくってまいりました。
逐次UPしてネタにしていきますので、乞うご期待!(しなくてもいいですよ・笑)
さて、久々のネタは
「倉吉市立倉吉東中学校」の校門(正門)です
初期の記事にも書きましたが、私が東中在校当時と今現在では、まるで全く違う学校?と思わざるを得ないくらい完全に旧校舎群の建築物等が破却され、当時の面影はほぼ95%くらいありません。
同様の感想を抱いておられる多くの卒業生(私たち世代かそれに近い人たち)もおられる事と思います。
先の記事にも書きましたが、校舎群とグランドがそっくりそのまま逆転配置となって、面影もクソもあったものではありません。
ただ・・・そんな中で僅かながらも奇跡的に当時を彷彿させるモノがいくらか残っております。
当時、グランドと校舎群の境目にあった桜の木は変わらずあの場所で花を咲かせております。
また、給食センター付近にあった大きな1本木、製材所の通りのブロック塀から見えていた木などは数少ない当時のものです。
あと、旧プール脇の産業道路沿いのブロック塀などもそうですね。
そして、最後に唯一「学校」を感じさせる残存物が今回のネタ
「旧校門(正門)」です。
画像を見てお分かりの通りで…これが今の現況です
かつて多くの生徒が出入りしていた我が校の表玄関たる校門(正門)の門柱・・・が・・・
なんたる様でしょう!!
表札を剥がされた跡が痛々しいくらいにモノ哀しさを語っております。
しかも、今は逆転した校内配置の関係で、どうやら裏門・通用門的な扱いっぽいですね。
そして、門柱自体も画像で分かるとおりで約1/3ほど地面(アスファルト?)に
埋まっております。
かつての表玄関、いわゆる顔ですよね!ここって。
いくら人の動線が変わったからって・・・この扱いはちょっと酷すぎないか?
と思うのは私だけでしょうか。
せめて、表札のあった場所に「東中通用門」とか木の札でもいいから掛けておけば
まだ旧正門としての威厳をしめせるだろうに・・・と。
没落した旧貴族?旗本?・・・っぽい雰囲気がとてつもなくイヤですね。
だって、私はここをくぐって巣立っていったのですから。
卒業生をバカにしているとしか思えない・・・と言ったら言い過ぎですけど、
もうちょっと何とか考える人いなかったのかな?と。
そう思って振り返ると、やはり「成徳」の正門は・・・幸せものですね。
明治40年以来、場所は時代の移り変わりで多少の変更もありながらもずっと平成の今現在も正門であり続けております。
そして、門柱も時代、校舎がどう変わっても存在し立ち続けております。
今の成徳の正門柱の位置・・・ほぼ白亜時代の位置に近い位置に戻してるみたいですね。
先日ちょっと確認しました。
両母校のこのスタンスの違い・・・一体どこからくるのだろう?。
まあ、なんにしても校門の位置がどうであろうが、若い生徒諸君が青春を謳歌する場所である事には変わりはないんですけどね(笑)
ただ・・・おじさんとしては、少しだけそういう事にも振り返って欲しいなぁ~・・・と。
私もここで同じ世代の若者として青春を過ごしたのですから。
2019年3月3日 ヤフーブログより引っ越し
(出展:倉吉市立倉吉東中学校HPより)
どうも。
成徳ネタが続いたので、今回は珍しく「東中」ネタで。
タイトルにあります「黄色の腕章」・・・何の事だかわかりますか?
ピンと来た人は・・・もしかして当時あなたはそうだったんですか!?
さて、ネタバレですが、
東中で「黄色の腕章」と言えば、そりゃ~もう「応援団」しかないですよね!(笑)
東中に入学してまず驚いたのは・・・「応援歌練習」。
校庭に整列させられて、何が始まるのかと思えばいきなり隣接する小鴨川の土手の斜面に登って怒鳴り声を発してる人がいて、
「この人は何?」って感じでしたね。
するとあれよあれよと言うまに、特に1年生の列の周りに「黄色い腕章」をつけた人相の悪い(失礼)BOYS&GIRLS達が立ち並び、同じく罵声を上げながら「指導」が入るんですよね。
「聞こえねぇ~ぞ!こらぁっ!」
「あ~ん?お前舐めとんのかぁ!!」
「しっかり声出すッ!」(女子)
「なにたらたら唄ってんの!」(女子)
「お前ら、それでも東中の生徒かぁ~!!!!あ~んコラっ!」
・・・まあ、今思えば思春期の中学生の男女が発する言葉とは思えないようなエゲつない
台詞のオンパレードでしたね!(笑)
団員(うちらは「リーダー」と呼んでました)はそれが仕事・任務ですから仕方がないのは理解してるんですが、男子ならまだしも「女子」のリーダーから「指導」されると女子に対する幻滅感は半端なかったですね。
結構可愛い先輩、綺麗・美人な先輩女子もいたのですが、それが口を開くと・・・
「あ~ん?何やってんのぉ~!!!」
ですからね・・・(泣)
カルチャーショックでしたね。
あっ!ちなみに、この「リーダー」と言う言い方も、「リー」にアクセントをつけてはダメです!全て平坦に発声します。ある意味「今風」な言い方なのかも?
この応援団のリーダーで驚いたのは、この腕章・・・外さないんですよ。
応援歌練習の時だけじゃなく、普段の日常生活(休日は別ですよ)でも着けてるんですよこれが。
だから当然授業中はもちろん、登下校時でさえ外さない。
あの黄色い目立つ生地に「倉吉東中 応援団」ってデカデカと書いてあるあのどう見ても小っ恥ずかしい腕章を着けてるのには驚きましたね。
きっと着けてる内に応援団員としての使命を自覚したか、洗脳されたに違いない!と
当時本気で思ってました。
まあ、でも彼・彼女達のお陰で、小学校卒業したばかりの甘ちゃんな私たちが早々と校歌、応援歌を覚える事が出来たわけですから、昭和チックなスパルタ方式はある意味正解なのかもしれません。
「こうじんふして 声もなく
凱歌の歌と 共に舞う
嗚呼君聞けや 東中の
若き選手の 汗と地を
我ら勝ちたり 敵はなし」
そんな事言ってて、数ある応援歌も全部忘れてしまった今現在なのですが、
↑この歌だけは覚えてます。メロディも。
と言うかメロディはしっかり覚えてるんですが、歌詞が・・・
すみません、思いっきり記述しておりますが、
例の如く「なんちゃって」なので、正解かどうかは不明です。
概ね合ってると思うのですが、「こうじん」が「後塵」なのかどうなのか?
凱歌の歌・・・とか若き選手なのか戦士なのか・・・
微妙なところで間違いがあるかもしれませんが、概ねこんな歌だったと思います。
この歌だけは歌詞の調子やメロディが好きで何故か覚えてるんですよね。
何かの大会で全校生徒で応援に行った記憶があるんですが、何かで優勝か何かして
これを唄った記憶があります。
最後の「我ら勝ちたり 敵はなし」と唄った時の爽快感、充実感!!!
いい歌ですね。CDとか売ってないんですかね?
誰か情報あったら教えてくださーい。
2019年3月2日 ヤフーブログより引っ越し
さて、今宵は珍しく「東中」ネタで。
「倉吉市立東中学校」
これもまた懐かしい我が母校です。
成徳小学校と違って、入学した当初驚いたのは・・・
ます、全体的な校舎の「ボロさ」でした(笑)
成徳は入学した時には既に白亜の校舎は存在せずに、旧・新校舎が建ってて、旧・西校舎だけが戦前から使ってた「ボロい」校舎だったので(当時は)、何となくそんなもんだと思っていたのです。
東中は実は私の実家からは近いので、学校周辺は行動範囲の中だった為、外からはいつも見てて知ってはいたのですが、いざ入学してみると・・・ほぼ全館木造のまさに明治から昭和の初期にかけての建築物のオンパレードと言った様相を呈しておりました。
成徳時代は木造校舎は旧・西校舎の1棟だけという環境だったので、敷地内ほぼ木造校舎だらけ(一部除く)と言う環境はなんとも形容し難く・・・ただ、元々子供の頃から好きだったんですかね?そういうのが!(笑)、趣きのある瓦葺の古い校舎の立ち並ぶ風景をなんとも小気味よく感じたのを覚えております。
ただ当時はまだ子供だったので、鉄筋の近代的な建物とかも全然好きで、「なんだこのボロさは!?」と小気味よく感じると同時に閉口するところもあったのも事実です。
しかも、私は1年生の時はそのオンボロ校舎だらけの東中の校舎群の中でもトップクラスの古さを誇る明治45年建立(確か)の校舎に振り分けられたものですから、そりゃもう・・・(笑)
まあ、そうは言いつつ住めば都・・・ではないですが、子供の事なので環境にもすぐなれてしまい「まっこんなもんだわ」と普通の中学生活を過ごしておりました。
ただ当時、2・3年生は比較的新しいプレハブ造りの綺麗な校舎に入っていたので、それとなく「早く2年生になりたいなぁ~・・・」みたいな願望はありましたね!
当時そのプレハブ造りの校舎を「新校舎」と呼んでいたのかどうかは全然記憶がないんですけど・・・不思議な事に成徳時代は、「新校舎」「西校舎」と比較的記憶が鮮明なのですが、東中時代の校舎の名称・・・全然覚えてないんですよね。
「理科室のあった校舎」「美術室のあった校舎」「職員室の校舎」・・・と言う具合に表現してて、よくある「東校舎」とか「西校舎」みたいな固有の名前で呼んだ記憶が全くない・・・と言うか覚えていないです。
これは何故なんだろう?と今になって思い返すと不思議なんですよねぇ~・・・ホントに覚えてないんです。(固有の名称(通称でも)があったかどうかも判然としません)
はっきり名称があって覚えているのは、「体育館」と「技術室」だけです(笑)
あっ!あと「武道館」この3つだけですね(笑)(プールは除く)
そう言ったわけで、思春期を過ごした少年から大人へ変貌していく過程を過ごした大切な学校なのですが、今振り返ると思ったよりもあまり覚えてない事が成徳小学校の時よりも多いのに気づいて少しばかり驚いております。
さて、この「東中」・・・今現在は当時と違って全く様変わりしてしまっております。
画像で比較すれば一目瞭然!!!
お分かりの通り、敷地中央部を境に校舎群とグランドがそのままそっくり位置が入れ替わってしまってます。
当時校舎があった地域が今はグランドに、グランドが今校舎群に・・・と。
比較的実家から近く、またお盆の時はすぐ近くの三明寺橋のたもとで「仏さん送り」をするため東中の東側道路(昔製材所のあった通りです)を通って三明寺橋まで行くのですが・・・その時にいつもみて感じるんですよ。
まあ!見るも綺麗に当時の面影は殆どありませんね!
そりゃそうですよね!(笑)普通校舎建て替えとかってなったら、グランド辺りにプレハブ小屋の仮校舎とか建てて、旧校舎を取り壊して、またその場所に新たに新校舎を建てる!・・・と言うような流れが一般的だと思います。
だから新しい校舎になっても、立ち位置はほぼ変化なしなので、全体的な建物の配置とかあまり変わり映えもせず学校全体の面影も残る・・・と言うのが普通です。
ところが・・・東中は全くその逆ですね。
私が在学した頃の面影は一切ありません!そりゃ~もう見事なくらい(笑)
悲しさを通りこして「あっぱれ」状態です。
何気に周りを散策して、当時の正門の門柱だけが当時と同じ場所にひっそりと立っております、今はグランドになった端っこの方で(ローソンのところです)「通用門」扱いのようになって・・・
「倉吉市立東中学校」と高々と掲げられていた表札の痕だけが往時の面影を唯一残してるのがなんともモノ悲しくて・・・。
しかもグランドの端っこなので門柱の裏側?(グランド側)は門柱半分土に埋もれてますからね!こりゃあまりにも「酷い」。
東中の校地・校舎・・・元々は今の「倉吉東高」の跡に入ったわけですから、敷地も建物も全て東高からの申し送りな訳です。
って事は、あのオンボロの校舎も、敷地も、門柱も全て・・・多くの生徒達が青春の日々を過ごし、またその生徒達を見守ってきたこれもまた「伝統」あるものだと思うんですけどね。
校舎などはやはり耐用年数とかの問題もありますから、いづれ建て替えと言う宿命は避けられないと思いますが、門柱とかはどうなんでしょう?
古い施設や建築物、「伝統」ある建物になればなるほど、そういったものを大切にあつかって、例え建物自体が近代的な建物に生まれ変わっても「門柱」だけは明治時代か?とギャップを感じさせるくらいのアンバランスな見栄えでも、たとえ再建立で元の位置から移設しても「正門」としての矜持を保たせる・・・くらいの気概がないとダメなのでは?と思うんですけどね。(あくまでも私見です)
そう考えると、成徳小学校の正門の門柱はなんて幸せものなんだろう!と思ってしまうわけですよ。
もちろん、創立当初からのモノではないと思いますが、ある時期にそこに建立されてからずっと「成徳の正門」としての威厳を保ち続けてきたのです。
そして、白亜の校舎が取り壊された際に当初の位置から移されましたが、それでも成徳の正門として厳然と存在し、平成の今また新校舎建立にあたって再度移設されて、今後も引き続き「成徳の正門」として存在し続ける・・・明治40年からずっと・・・です。
それに引きかえ・・・我が母校「東中」(東高)の門柱は・・・エライ違いですね。
人に教えると言う施設である学校がそんな事でいいのでしょうか?
読み・書き・そろばん・・・さえ教えればそれでよし!・・・ではないと思うのですが。
たかが「門柱」(の跡?)ひとつですが、そんな門柱一つに物語があると言う事に想いを馳せれない方がよほど問題だと思ってしまう年寄りの戯言でした。
あ~・・・また愚痴ってしまった、ヤバイヤバイ・・・(汗)