誠の心 - 永遠なれ!我が母校 倉吉市立成徳小学校 -

本格運用開始しました。 母校ネタが本旨ですが、京都橘…そしてそれ以外のネタ、なんでもござれです! 基本「自由」…でも「何でもアリ」ではないのでその点ご注意を。

カテゴリ: 倉吉市立東中学校

2019年3月3日 ヤフーブログより引っ越し


2018/9/14(金) 午後 0:02


ども!
「偽物」の京都橘ファン…ではなかった。

すみません、本日は「京都橘」ネタではありません。

なので、「偽物」表示は無しって事で。

本日は久々に「京都橘」を離れて本来の地元ネタでございます。
楽しみにしておられた(かも?)方、全然興味のない話なので、また次回以降に…
(と言ってもこのところ「橘」続いたので、しばらく母校ネタを続ける予定ですが)

と言ったところで、本日は珍しく

「東中」ネタでございます。

先日お盆にも帰省したのですが、夏前くらいに転居することが決まり(倉吉に帰るわけではないですよ?)新住居では使わないものだとか、ここのブログでネタにするような過去の品などを取りに帰ったりと…お盆・正月以外で例年にはないくらいの頻度で実家に帰りました。

実家から少し離れたところに物置を兼ねたガレージ(2階建て)があるのですが、それはそれはもう…私が家を出てからの物品が山のように保管してあるわけです。
うちの母はとにかく「モノが捨てられない人」なんです。
まあ、戦前のしかも「教育勅語」で育った世代ですからね!
コンビニの買い物袋(白のビニールのやつ)でも丁寧に三角折?して保管しておいて、ごみ袋だとかあれこれ利用してます。
なので、約10数年前に念願だった新居を建ててご満悦だったのはいいのですが、かなり広い敷地で、部屋数もかなりあるそれなりの広さの家屋を建てたはずなのに、いつも帰省して感じるのは、部屋の手狭感…。
結構な畳数の部屋なのに、なんだか妙に狭苦しく感じるわけです。

ある時気づきました。
とにかくなんでも「野積み」してるんです。
つまり、戸棚とか収納とかに入れてるんじゃなく、床やお膳その他にとにかく「平らな」ところがあれば、モノを置きまくるんですよ。

結局、根底に「もったいない」…があるものですから、まず「捨てない」、取っておく、そして置き場(収納)がない…だから置けるような「平らな」場所にはありとあらゆるものが置かれる…と言った、まさに悪循環な方程式がなりたつわけです。

ホント、一歩間違えればまさに「ゴミ屋敷」と言ってもいいくらい。

まあ、あくまでも「ゴミ」ではないのですが(食品その他)、せっかくの広い間取りや、スペースが極端に狭くなってしまってるんですよね。

12畳くらいある部屋が実質4畳半もないくらい?って表現すれば想像できるでしょうか。

あと、冷蔵庫!
なんと我が実家には冷蔵庫が2台もあって(1個でもかなりの大きさ)、その冷蔵庫の中がとにかく常にパンパンなんです。
つまり「モノが詰まりまくってる」って感じなんですよねぇ~。
年寄り2人の生活なのに、いったいこの分量は何を冷やしてるんだ?っていつも帰省した時に不思議に思うんですが、よく見たら「消費期限」の過ぎてるマヨネーズ・ドレッシング類、いつ作ったかわからない「氷」、其の他かなりの量の「期限切れ」製品が数多く詰め込まれて「冷やされてる」んですよ。
年寄りの感覚ってこんななのかな?ってまだそこまで老いてない私からすると、これは如何なものか?と感じてしまうんですよね。

恐らく「戦前」生まれの2人からすれば、「モノは大切に」、壊れたなら「直す」が基準で、生活全般に「勿体ない」が染みついてるんでしょう。
私自身も昭和の人間ですから、それなりには「勿体ない」の精神はもっておりますが、やはり時代が時代で平成の今の世…世間はやたらに「除菌・抗菌」…と清潔さを前面に押し立ててますから、それに抗うわけにもいかず、それなりに「清潔」感の感覚は持ち合わせているつもりです。
おまけにずっと昔20代の頃、消費期限(賞味期限だったかも?)を過ぎた何かを食ってエラい目にあった記憶があって、それ以来期限切れのものは基本的に食べない・飲まない事にしています。
なので、実家に帰った際の食事時に母がドレッシングやらマヨネーズやらを出してきてもしっかり「期限」を確認してから使ってます(親の気遣いを無にする、随分と親不孝な息子です)
が、かなりの確率で「期限」が切れてるものが多いんですよ。
恐らく、近場のスーパーなりで、安かったからまとめ買いしてストックしてたんでしょうね?開封もせず冷蔵庫で冷やしているから「大丈夫」と、冷蔵庫神話を信じてるんだと思います。

「もったいない」

とても素晴らしい心がけだとは思うのですが、特に歳を取ってからは十分に気を付けないと、抵抗力も若者よりも随分劣ってますから、ちょっとした事…若い頃には全然平気だったことでも年寄りにとっては恐ろしいほどの負荷となって襲ってきます。
少々の「期限切れ」くらい大した事ないわ!と油断してるとやられるなぁ~と感じたこの頃でした。

そんな偉そうな事を言っている当の私にしても今現在、引っ越し作業に追われて家中の収納やら押し入れなどに押し込まれていた各種段ボールの類を開いて整理してるんですが、転勤で帰ってきてから押し入れに入れたまま、ここ10数年開梱してない段ボール箱がやたらにあって…モノを野積みにしている母の事を思い出し、野積みか押し込みっぱなしか…の違いであって、たいして私も変わらんがな?と慚愧の至りです。

さて、家庭事情は置いといて(笑)

こんなわけで、最近やたらに身辺が整理されつつある私の環境ですが、先日帰省した際に探し物をしておりましたら…な、なんと!発見してしまったのです。

「生徒手帳」

倉吉東中時代のものと、高校時代のものが!(驚)
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いや~懐かしい。
40年以上も前の代物ですよ!!(笑)
よく残っていたものです。これも正に「モノを捨てられない」母の愛のおかげなのかも?
おかげ様で、パソコンもスマホ…いや「携帯電話」も、ネットなども皆無の遠い過去から40数年の時空を超え、わが生徒手帳「ネットDebut」です!(爆)
まさか、お役御免になってから40数年後にネット上に掲載される日がこようなど、わが生徒手帳殿も想定外の出来事だったでしょうね。

発見した時は、まさに「ウォォォ―!!!!」ってな雄叫びが。

して、早速40数年ぶりに中身を拝見…ふむふむ…
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お~!我が校歌です。
メロディーが自然に頭の中をよぎります!
この3番の「自由の旗を靡かせて」(赤下線)と言うあたりは、やはり戦後の学制改革により新設された「中等学校」ならぬ「中学校」ならではの歌詞かな?と思うんですよね。

さて、ページを続けてめくってみると…
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おっと!こ、これは…キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
「応援歌」だぁ~!!!!!!

うん、今でも歌えます!これもまたしっかり頭の中にメロディーがよぎってます。
この「大山はるか」の最後の英語の歌詞(赤下線)の部分…

「Victory」のところは、ヴィクトリーではなく、

「ブイ、アイ、シー、ティー、オー、アール、ワイ」

って一文字ずつ区切って言うんですよね。

そして、最後の「Oh,yes,yes,」の後に続いて
「フレ!(Oh!)フレ(Oh!)、ひーがーし!!」と応援コールを叫んでましたね。
確か2回くらい続けて言ったっけ?

これもやはり、最後の方に英語表記の歌詞が正式にあるわけですが、日本の学校の応援歌に英語の歌詞の歌があるなんて、戦後に新しく作られた学校の特徴でしょうね。

これはこれで良いのですが、当時何となく違和感を感じてました。
「なんで日本の学校の歌なのに、英語が入ってるんだ?」みたいな。
英語を習うのは良いとして、学校の歌詞とかってちゃんとしたものだろ?みたいに思ってて、「日本」の学校の歌詞に何故英語が入ってくるんだ?って感じで、当時から「やっぱり戦争は負けちゃダメだな?」とか「次は勝たねば」みたいな事本気で思ってましたからね!
まあ、今も思想的にはたいして変わってないですが(笑)

と言って別に強烈な「反米」でもないですけどね!アメリカ製品バンバン使ってますし(笑)朝マック大好きですし!!(爆)
あっ、しつこいようですが「マクドナルド」は「マック」ですからね!
決して「マクド」ではありません(キッパリ)

あ~関西圏の人に喧嘩を売ってしまいました!!(笑)
(って事は「京都橘」のオレンジの悪魔たちにも…それは…でも譲れませんね・笑)

話が逸れました。
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そして、この画像の赤線の部分…
そこには、かつて「東の平」と呼ばれた、現「倉吉市役所本庁舎」が建っている場所に「倉吉東中学校」が存在していたという証がこの歌詞の中に込められております。

東の平については既出「東の平」こちらをご覧ください。

しかし、改めて考えても…学校を潰してまでも「市役所」をそこに建てなければならなかった訳を言え!!って感じですけどね?。一体何が…。

そんな鬼畜な倉吉市役所の陰謀については、同じく既出の「市役所の陰謀」へ(笑)
あっ!断っておきますが、市役所の陰謀についてはあくまでも勝手な「妄想」ですからね!例えドンピシャリで大当たりだったとしても、たまたま図星だったってだけで、妄想が偶然当たっただけなので、一切責任は持ちません。
(…って言うかそんな読まれる・見切られる「見え透いた」陰謀なぞ巡らせんでもええだろうに…ボソッ)

ところで!このページの下段にある
「栄光の歌」と言う応援歌(黄色囲い内)
実はこの応援歌が一番好きでしたね!
歌詞自体には一切「横文字」もなく、文言もどこか戦前風で当時の私(今もですが)には「意味不明」みたいな文言だらけな歌詞の応援歌でしたが、なぜか妙にしっくり来ると言うか、歌詞とメロディーが絶妙にマッチしているんですよ!
もちろん超個人的にそう感じるってだけの話ですが。

最後の「われら勝ちたり、敵はなし」の一文…泣きそうです。

さて、更に進めて…
イメージ 3
この応援歌も覚えてます!
メロディーも頭の中を駆け巡っております。
もちろん40年以上も昔の事なので、校歌、応援歌ともに歌詞などは所々うろ覚え状態でしか思い出せませんが、こうして見ながらだと全然歌えますね。
この歌詞にも「ファイト」「スクラム」などと言う英語が入ってる段階で戦後の創作と言う事になります、自由・民主主義等々が喧伝された時代を反映してます。

40数年ぶりにみた「倉吉東中 生徒手帳」…

成徳小学校時代よりも時代が下がった時代のはずなのに、これと言って記憶にあまり残ってないんですよね?
どちらかと言えば「成徳小学校」時代の方の思い出・記憶の方が鮮明で。
が、しかし…
こうして数十年の時を経て相まみえたわが生徒手帳を手に、ペラペラとページをめくっていると忘れていた何かがふと頭の中をよぎったり、こうして忘れていた校歌・応援歌の歌詞をしっかり口ずさむ事もできたり…と。

それはもしかして、こうして今私が「ブログ」と言うモノを起ちあげた時期に合わせて「当時ネタ」を提供するために40数年の時空を超えて現れたのか?とすら思える「わが生徒手帳」。

おかげで、こうして昭和の遺物の一つが平成も終わろうとしている今この時にネットデビューを果たし得たのも、「もったいない」と言う気概をもった「モノが捨てられない」母のおかげであろうと感じた今日この頃でありました。


2019年3月3日 ヤフーブログより引っ越し




ども!生来のひねくれ者なので・・・

橘ファンの方・・・簡単に「その3」へはいきません(笑)

お楽しみにしてた方(いるかどうかは不明ですが・笑)すみません・・・。

って事で、本日のネタは

「東の平」

・・・「で、それ何?」と言う声がまた聞こえてきそうですが、
この「東の平」・・・「ひがしのたいら」ではありません、「あずまのたいら」でもないですからね!

「ひがしのなる」と読みます。

♪東の平~に~意気た~かく~胸こそ躍れ若き身の・・・♪

と、倉吉東中応援歌・・・曲名がさっぱり出てこないのですが、その内の一節の歌詞に唄われている文言です。

似たような名前で「椿の平」と言う地名があります。
こちらも「つばきのたいら」ではなく、「つばきのなる」と呼称します。
イメージ 1
(出展:国土地理院 地図情報ライブラリーより) 

これが「椿の平」です。
さて、私が「東中」在学当時、応援歌練習の時に唄わされた応援歌の中の一節に最初に紹介した歌詞があるのですが、当時「東の平」と言うのが何を意味しているのかさっぱりわかりませんでした。
「平(なる)」と言う呼称が付いてたので、てっきり「椿の平」の事だとばかり思ってたので。
東中に入学する前から、昔の東中は打吹山の麓(現在の倉吉博物館の位置)にあった
と言うのは周知の事実として認識しておりましたら、あの辺りに中学校があったのは知ってたので、東中があったから今の「椿の平」が「東の平」って呼ばれてたんだろう?って妙な理屈を考えてたのを覚えてます。
でも、東中が今現在の場所に移転してからは、東中がなくなってしまったから「東」だとおかしいだろうから「椿」に変えた・・・と(笑)
まあ、随分身勝手な妄想ですよね!!
なので、繰り返しますが、私の中では勝手に東中があった時代は「東の平」、移転してからは東中が居ないので「東」のところを「椿」に変えた・・・と言う認識でした。
いや~・・・知らないという事は恐ろしい(爆)

さて、応援歌に歌われた「東の平」・・・
イメージ 2
(出展:国土地理院 地図情報ライブラリーより)
ここが正式な「東の平」です。

最初のカラー画像と比べてみてください。
何かに気付くでしょ?
そうなんです、この「東の平」と呼ばれた場所・・・今は「倉吉市役所本庁舎」が建っている場所なんです。
つまり、「東の平」と呼ばれたところは、観光地でも公園用地でもなんでもなく、学校の敷地の名称だったのです。
そう、教育と言う神聖な場所、土地だったわけですが、己どもの新庁舎立地の為に学校そのものを移転(言い換えると追い出し)させてその土地を奪取したわけです。

う~ん・・・昔からやり方が変わらない。

あっ!ちなみに、初めて私の記事を読まれる方のために一言言っておきますが、私のこのブログ内では「倉吉市役所」は一方的に「悪者」(ヒール)扱いなのでご了承を!!
(実際はどうなのかはこの際無視です、記事を盛り上げる為にこのブログが終了するその日まで徹底的に「悪」に徹してもらいます)

って事で、話を戻しますが、
そう、「東の平」と言うのは元々が倉吉東中の校庭(グランド)だった場所の名称だったわけで、だから移転した後も応援歌の中にその名残が残っていた!!・・・と言う事だったのです。
後で知って、「そうだったのかぁ~!!」と目からウロコが落ちました。

終戦に伴い、進駐軍による占領政策の一環として、学制改革で学校の制度そのものが戦前とは根本的に変革されました。
皆さんもよく知ってる「6・3・3」です。
6・3・3と聞くと、昔「♪6・3・3で12年、コイズミ学習机~♪」ってCMがあったのを思い出しました(笑)
小学校6年、中学校3年、高等学校3年の6・3・3と言うわけです。
概略ですが、戦前は小学校(国民学校)、高等小学校、中等学校、高校学校(師範学校等)、大学・・・と言う流れで、しかも縦一列で順番に進むわけではなく、小学校を出て中学校(旧制)に行くものもあれば高等小学校へ行くものもあり、また中等学校なども横に並列して同レベルの他種目学校が多数あり、戦後の6・3・3と言う至極単純なコースとは天と地ほどの差があるとても複雑な学制になっておりました。
書いてる私も調べてて頭がおかしくなりそうでした。

と、そんな事で、成徳はそのまま戦後も小学校のままでしたが、戦前の「倉中」(そうちゅうと呼称する)、いわゆる倉吉中等学校は、今の学制で言うところの中学校ではなく、あくまでも旧制の中学と言う位置づけで、戦後は「高等学校」になったわけです。すると、「成徳小学校」→「倉吉高等学校」とはならないわけで、6・3・3の真ん中の「3」が無いわけで、そこで戦後新しく「中学校」として作られたのが今の学制で言うところの「中学校」なわけです。
だから、ミディアムスクールではなく「ジュニア」ハイスクールなのです。
・・・と↑の方は中学生のときにある先生から聞いた受け売りなんですけどね。

と言う事で、戦後新たに設立された「中学校」と言う新組織の為に全国的にあちこちで校舎の建設ラッシュが始まったのだと思います。

終戦直後の混乱期であるのに、全国津々浦々に一律で新しい学校&その設備の整備・・・いやいや当時は大変だっただろうと思います。
巷にはまだ旦那さんやお父さん、お兄さん、弟さんなどが徴兵から復員してない人なども大勢いた世相だったろうに・・・と。
明日食べるものも事欠いてる家庭も膨大にあったと思います。
現に、私の実家ですが当時祖父は岩国の航空隊へ整備兵で召集され不在、長男である父を筆頭に4人兄妹で戦後の混乱期を過ごしたそうですが、一応運の良い事に当時畑・田んぼを所有して細々ながらカツカツで自給出来てたそうですが、それでも戦後の物価の上昇インフレなどが直撃して、ある日「さて、子供らに食べさせるもんが何もないけど・・・どうすりゃええかいの~・・・」と一人ポツっと独り言を言った祖母の姿が忘れられないと聞いたコトがあります。
その言葉通り、その時にはホントに家に何も食べるものが無かったそうで、父もさすがに慌てたそうです。
その後その窮地をどう乗り越えたのかは不明ですが。
まあ、当時は空襲の被害など全くなかった倉吉の市井の人達でさえ、そんな状況だったと言うことです。
そんな中での新築ラッシュ・・・なんだかなぁ~って感じですが、これも歴史ですね。
仕方の無いことです。
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そんなこんなで、落成しちゃいました!新編「倉吉東中学校」校舎
昭和24年ですからねぇ~・・・終戦後まだ4年・・・。
そして、逐次拡張されて学校の体裁も整ってきたようです。
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件の「東の平」からの展望です。更に校舎群、用地の整備なども進んでる感じが見て取れますね。(階段など)

しかし・・・しかしですよ!!
昭和24年に落成した、新生「倉吉東中学校」校舎ですが、その後学校施設、敷地内の拡充・整備も進んで、さてこれから!・・・って時に、まさかの「移転」が・・・

移転先は、旧倉中・・・新生「倉吉東高等学校」旧校舎。
東高は、今の現校舎の場所に新築されたので移転したわけで、旧・校舎が空き家になってるから「東中」はそこへ行け!!・・・と。
で、その敷地は全部「倉吉市役所」ものなのじゃぁ~!!!(悪魔の笑)・・・と。
まさに「鬼畜」の所業ですね。

それに第一、その話が湧いてきたのも昭和も20年代最後の辺りです。
竣工が32年ですからね。
建築してわずか6年ほどして「移転」話・・・しかも残った建物群は全て破却!!
おいおい、いつからそんなに倉吉はお金持ちの街になったんだ!?って言いたくなるような贅沢な予算の使い方ですよね。
しかも、当時としては超斬新な前衛デザイナー「丹下健三」氏のデザインでの建築・・・身の丈にあってない事この上ないって感じです。
まあそんな訳で、あっと言う間に「東の平」も取り上げられ、ジャンジャン工事が始まって・・・あっと言う間に出来ちゃいました!!!
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ジャーン!神聖な学校の敷地を強奪して建築した「立派」な市役所庁舎!!
まさに権力の横暴極まれり!って感じですが、まあこれが約60年ほど前の出来事です。
これが今や国の「登録有形文化財」だそうです。いやはや・・・当時の中学生の涙を知っとるのか?お上は??。
とまあ、こうして「倉吉東中」はその創立の本拠地を追われ、オンボロ空き家の元中等学校の校舎への移転を余儀なくされ、以降約40年近くそのオンボロ校舎での苦痛を味あわされ続けたのでした(もちろんその中には私もいます・笑)。

私が、小学校(成徳)の頃、「椿の平」に遊びに行った時のことですが、当時はまだ「倉吉博物館」も出来てない頃だったので、いわゆる「東中」跡地の光景を覚えてます。
なんとも荒涼とした土地が広がってて、そこへ建物の基礎の部分(コンクリート)の枠と階段だけが寂しく残り、かつてここに何か大きな建築物が建っていたのを彷彿させるのに十分なくらいの生々しい雰囲気が漂っておりました。
その内、いつの頃からか重機などが入ってやたらに土を起こしてたんですが、あっと言う間に綺麗に整地されてしまって、残っていたかつての東中の僅かな痕跡すら永遠に地上から抹消されてしまった時、なんともいえない複雑な想いが去来したのを今も覚えています。まだ中学生でもなかったんですけどね。
その後、跡地には「倉吉博物館」が建立されたのはいいのですが、今度はやれ駐車場がないだのアクセスが悪いだの、市役所自体の手狭感が出てきたらしく、業務に支障が・・・などとほざき出し、拡張政策が始まったのです。
今やかつて消防署だった隣の庁舎もその手中に収め、次は図書館、それでもまだ足りぬ・・・どこか近傍に大きな空いたスペースは・・・「おっ!!!あったじゃん!」と
とうとう我が母校「成徳小学校」の土地まで強奪しようとあらゆる陰謀を画策するに至ったわけであります!!!!

この辺りのことは、既出 市役所の陰謀 に記述してありますので、割愛します。
よろしければご一読どうぞ(笑)

あっ!あくまでも「妄想」の世界の話ですからね!!!

しかし、酷い話です。
行政が己の業務の都合で、学校を好き勝手に移転、統廃合・・・殿様か?
しかも、新築で立てた校舎を10年も経たずに解体・破却・・・どんな予算組んどるんじゃ!?って、今の時代ならプロの市民が出てきて大変な事になるぞぉ~?(笑)
まあ、時代のなせる技ってやつだったのかもしれませんね。

過ぎたるは及ばざるが如し・・・
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もう、二度とこんなのどかな風景を満喫出来る学園は帰って来ません・・・
今はもう「♪東の平~に~意気た~かく~♪」・・・と歌詞の中だけに存在するのみです。


2019年3月3日 ヤフーブログより引っ越し


2018/4/9(月) 午後 4:12


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ずいぶんと怠けておりました・・・

と言うか、年度末から年度明けにかけて例年超多忙になり、おまけに本年度は
業務・配置の変更があったもので、引継ぎやら申し送りやら・・・なにかと追い込まれて
おりましたので、つい更新を後回しにしてしまいました。

ちょくちょく確認はしてたのですが、こんな私の他愛のないブログでも定期的な訪問者さまがおられるようで・・・すみませんでした。

と言う事で、満を持して・・・と言いたいところですが、これといったビッグなネタがあるわけでもなく、まあそれはそれなりに・・・。

さて、先日の彼岸の時に正月以来となる帰省をしまして、ここぞとばかりに成徳その他の画像を撮りまくってまいりました。

逐次UPしてネタにしていきますので、乞うご期待!(しなくてもいいですよ・笑)

さて、久々のネタは

「倉吉市立倉吉東中学校」の校門(正門)です

初期の記事にも書きましたが、私が東中在校当時と今現在では、まるで全く違う学校?と思わざるを得ないくらい完全に旧校舎群の建築物等が破却され、当時の面影はほぼ95%くらいありません。



 同様の感想を抱いておられる多くの卒業生(私たち世代かそれに近い人たち)もおられる事と思います。

先の記事にも書きましたが、校舎群とグランドがそっくりそのまま逆転配置となって、面影もクソもあったものではありません。

ただ・・・そんな中で僅かながらも奇跡的に当時を彷彿させるモノがいくらか残っております。
当時、グランドと校舎群の境目にあった桜の木は変わらずあの場所で花を咲かせております。
また、給食センター付近にあった大きな1本木、製材所の通りのブロック塀から見えていた木などは数少ない当時のものです。
あと、旧プール脇の産業道路沿いのブロック塀などもそうですね。

そして、最後に唯一「学校」を感じさせる残存物が今回のネタ

「旧校門(正門)」です。


画像を見てお分かりの通りで…これが今の現況です



 かつて多くの生徒が出入りしていた我が校の表玄関たる校門(正門)の門柱・・・が・・・

なんたる様でしょう!!

表札を剥がされた跡が痛々しいくらいにモノ哀しさを語っております。

しかも、今は逆転した校内配置の関係で、どうやら裏門・通用門的な扱いっぽいですね。

そして、門柱自体も画像で分かるとおりで約1/3ほど地面(アスファルト?)に
埋まっております。

かつての表玄関、いわゆる顔ですよね!ここって。
いくら人の動線が変わったからって・・・この扱いはちょっと酷すぎないか?
と思うのは私だけでしょうか。

せめて、表札のあった場所に「東中通用門」とか木の札でもいいから掛けておけば
まだ旧正門としての威厳をしめせるだろうに・・・と。

没落した旧貴族?旗本?・・・っぽい雰囲気がとてつもなくイヤですね。
だって、私はここをくぐって巣立っていったのですから。
卒業生をバカにしているとしか思えない・・・と言ったら言い過ぎですけど、
もうちょっと何とか考える人いなかったのかな?と。

そう思って振り返ると、やはり「成徳」の正門は・・・幸せものですね。

明治40年以来、場所は時代の移り変わりで多少の変更もありながらもずっと平成の今現在も正門であり続けております。
そして、門柱も時代、校舎がどう変わっても存在し立ち続けております。
今の成徳の正門柱の位置・・・ほぼ白亜時代の位置に近い位置に戻してるみたいですね。
先日ちょっと確認しました。

両母校のこのスタンスの違い・・・一体どこからくるのだろう?。

まあ、なんにしても校門の位置がどうであろうが、若い生徒諸君が青春を謳歌する場所である事には変わりはないんですけどね(笑)

ただ・・・おじさんとしては、少しだけそういう事にも振り返って欲しいなぁ~・・・と。
私もここで同じ世代の若者として青春を過ごしたのですから。


2019年3月3日 ヤフーブログより引っ越し



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              (出展:倉吉市立倉吉東中学校HPより)

どうも。

成徳ネタが続いたので、今回は珍しく「東中」ネタで。

タイトルにあります「黄色の腕章」・・・何の事だかわかりますか?
ピンと来た人は・・・もしかして当時あなたはそうだったんですか!?

さて、ネタバレですが、
東中で「黄色の腕章」と言えば、そりゃ~もう「応援団」しかないですよね!(笑)

東中に入学してまず驚いたのは・・・「応援歌練習」。



 校庭に整列させられて、何が始まるのかと思えばいきなり隣接する小鴨川の土手の斜面に登って怒鳴り声を発してる人がいて、

「この人は何?」って感じでしたね。

するとあれよあれよと言うまに、特に1年生の列の周りに「黄色い腕章」をつけた人相の悪い(失礼)BOYS&GIRLS達が立ち並び、同じく罵声を上げながら「指導」が入るんですよね。

「聞こえねぇ~ぞ!こらぁっ!」

「あ~ん?お前舐めとんのかぁ!!」

「しっかり声出すッ!」(女子)

「なにたらたら唄ってんの!」(女子)

「お前ら、それでも東中の生徒かぁ~!!!!あ~んコラっ!」

・・・まあ、今思えば思春期の中学生の男女が発する言葉とは思えないようなエゲつない
台詞のオンパレードでしたね!(笑)

団員(うちらは「リーダー」と呼んでました)はそれが仕事・任務ですから仕方がないのは理解してるんですが、男子ならまだしも「女子」のリーダーから「指導」されると女子に対する幻滅感は半端なかったですね。

結構可愛い先輩、綺麗・美人な先輩女子もいたのですが、それが口を開くと・・・

「あ~ん?何やってんのぉ~!!!」

ですからね・・・(泣)

カルチャーショックでしたね。

あっ!ちなみに、この「リーダー」と言う言い方も、「リー」にアクセントをつけてはダメです!全て平坦に発声します。ある意味「今風」な言い方なのかも?

この応援団のリーダーで驚いたのは、この腕章・・・外さないんですよ。

応援歌練習の時だけじゃなく、普段の日常生活(休日は別ですよ)でも着けてるんですよこれが。

だから当然授業中はもちろん、登下校時でさえ外さない。

あの黄色い目立つ生地に「倉吉東中 応援団」ってデカデカと書いてあるあのどう見ても小っ恥ずかしい腕章を着けてるのには驚きましたね。

きっと着けてる内に応援団員としての使命を自覚したか、洗脳されたに違いない!と
当時本気で思ってました。

まあ、でも彼・彼女達のお陰で、小学校卒業したばかりの甘ちゃんな私たちが早々と校歌、応援歌を覚える事が出来たわけですから、昭和チックなスパルタ方式はある意味正解なのかもしれません。

「こうじんふして 声もなく
 凱歌の歌と   共に舞う
 嗚呼君聞けや  東中の
 若き選手の   汗と地を
 我ら勝ちたり  敵はなし」

そんな事言ってて、数ある応援歌も全部忘れてしまった今現在なのですが、

↑この歌だけは覚えてます。メロディも。
と言うかメロディはしっかり覚えてるんですが、歌詞が・・・

すみません、思いっきり記述しておりますが、
例の如く「なんちゃって」なので、正解かどうかは不明です。

概ね合ってると思うのですが、「こうじん」が「後塵」なのかどうなのか?
凱歌の歌・・・とか若き選手なのか戦士なのか・・・

微妙なところで間違いがあるかもしれませんが、概ねこんな歌だったと思います。

この歌だけは歌詞の調子やメロディが好きで何故か覚えてるんですよね。

何かの大会で全校生徒で応援に行った記憶があるんですが、何かで優勝か何かして
これを唄った記憶があります。
最後の「我ら勝ちたり 敵はなし」と唄った時の爽快感、充実感!!!

いい歌ですね。CDとか売ってないんですかね?
誰か情報あったら教えてくださーい。


2019年3月2日 ヤフーブログより引っ越し



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さて、今宵は珍しく「東中」ネタで。

「倉吉市立東中学校」

これもまた懐かしい我が母校です。

成徳小学校と違って、入学した当初驚いたのは・・・
ます、全体的な校舎の「ボロさ」でした(笑)

成徳は入学した時には既に白亜の校舎は存在せずに、旧・新校舎が建ってて、旧・西校舎だけが戦前から使ってた「ボロい」校舎だったので(当時は)、何となくそんなもんだと思っていたのです。

東中は実は私の実家からは近いので、学校周辺は行動範囲の中だった為、外からはいつも見てて知ってはいたのですが、いざ入学してみると・・・ほぼ全館木造のまさに明治から昭和の初期にかけての建築物のオンパレードと言った様相を呈しておりました。

成徳時代は木造校舎は旧・西校舎の1棟だけという環境だったので、敷地内ほぼ木造校舎だらけ(一部除く)と言う環境はなんとも形容し難く・・・ただ、元々子供の頃から好きだったんですかね?そういうのが!(笑)、趣きのある瓦葺の古い校舎の立ち並ぶ風景をなんとも小気味よく感じたのを覚えております。

ただ当時はまだ子供だったので、鉄筋の近代的な建物とかも全然好きで、「なんだこのボロさは!?」と小気味よく感じると同時に閉口するところもあったのも事実です。

しかも、私は1年生の時はそのオンボロ校舎だらけの東中の校舎群の中でもトップクラスの古さを誇る明治45年建立(確か)の校舎に振り分けられたものですから、そりゃもう・・・(笑)

まあ、そうは言いつつ住めば都・・・ではないですが、子供の事なので環境にもすぐなれてしまい「まっこんなもんだわ」と普通の中学生活を過ごしておりました。

ただ当時、2・3年生は比較的新しいプレハブ造りの綺麗な校舎に入っていたので、それとなく「早く2年生になりたいなぁ~・・・」みたいな願望はありましたね!

当時そのプレハブ造りの校舎を「新校舎」と呼んでいたのかどうかは全然記憶がないんですけど・・・不思議な事に成徳時代は、「新校舎」「西校舎」と比較的記憶が鮮明なのですが、東中時代の校舎の名称・・・全然覚えてないんですよね。

「理科室のあった校舎」「美術室のあった校舎」「職員室の校舎」・・・と言う具合に表現してて、よくある「東校舎」とか「西校舎」みたいな固有の名前で呼んだ記憶が全くない・・・と言うか覚えていないです。
これは何故なんだろう?と今になって思い返すと不思議なんですよねぇ~・・・ホントに覚えてないんです。(固有の名称(通称でも)があったかどうかも判然としません)

はっきり名称があって覚えているのは、「体育館」と「技術室」だけです(笑)
あっ!あと「武道館」この3つだけですね(笑)(プールは除く)

そう言ったわけで、思春期を過ごした少年から大人へ変貌していく過程を過ごした大切な学校なのですが、今振り返ると思ったよりもあまり覚えてない事が成徳小学校の時よりも多いのに気づいて少しばかり驚いております。

さて、この「東中」・・・今現在は当時と違って全く様変わりしてしまっております。

画像で比較すれば一目瞭然!!!
お分かりの通り、敷地中央部を境に校舎群とグランドがそのままそっくり位置が入れ替わってしまってます。
当時校舎があった地域が今はグランドに、グランドが今校舎群に・・・と。
比較的実家から近く、またお盆の時はすぐ近くの三明寺橋のたもとで「仏さん送り」をするため東中の東側道路(昔製材所のあった通りです)を通って三明寺橋まで行くのですが・・・その時にいつもみて感じるんですよ。

まあ!見るも綺麗に当時の面影は殆どありませんね!
そりゃそうですよね!(笑)普通校舎建て替えとかってなったら、グランド辺りにプレハブ小屋の仮校舎とか建てて、旧校舎を取り壊して、またその場所に新たに新校舎を建てる!・・・と言うような流れが一般的だと思います。
だから新しい校舎になっても、立ち位置はほぼ変化なしなので、全体的な建物の配置とかあまり変わり映えもせず学校全体の面影も残る・・・と言うのが普通です。

ところが・・・東中は全くその逆ですね。
私が在学した頃の面影は一切ありません!そりゃ~もう見事なくらい(笑)
悲しさを通りこして「あっぱれ」状態です。

何気に周りを散策して、当時の正門の門柱だけが当時と同じ場所にひっそりと立っております、今はグランドになった端っこの方で(ローソンのところです)「通用門」扱いのようになって・・・
「倉吉市立東中学校」と高々と掲げられていた表札の痕だけが往時の面影を唯一残してるのがなんともモノ悲しくて・・・。
しかもグランドの端っこなので門柱の裏側?(グランド側)は門柱半分土に埋もれてますからね!こりゃあまりにも「酷い」。

東中の校地・校舎・・・元々は今の「倉吉東高」の跡に入ったわけですから、敷地も建物も全て東高からの申し送りな訳です。
って事は、あのオンボロの校舎も、敷地も、門柱も全て・・・多くの生徒達が青春の日々を過ごし、またその生徒達を見守ってきたこれもまた「伝統」あるものだと思うんですけどね。
校舎などはやはり耐用年数とかの問題もありますから、いづれ建て替えと言う宿命は避けられないと思いますが、門柱とかはどうなんでしょう?

古い施設や建築物、「伝統」ある建物になればなるほど、そういったものを大切にあつかって、例え建物自体が近代的な建物に生まれ変わっても「門柱」だけは明治時代か?とギャップを感じさせるくらいのアンバランスな見栄えでも、たとえ再建立で元の位置から移設しても「正門」としての矜持を保たせる・・・くらいの気概がないとダメなのでは?と思うんですけどね。(あくまでも私見です)

そう考えると、成徳小学校の正門の門柱はなんて幸せものなんだろう!と思ってしまうわけですよ。
もちろん、創立当初からのモノではないと思いますが、ある時期にそこに建立されてからずっと「成徳の正門」としての威厳を保ち続けてきたのです。
そして、白亜の校舎が取り壊された際に当初の位置から移されましたが、それでも成徳の正門として厳然と存在し、平成の今また新校舎建立にあたって再度移設されて、今後も引き続き「成徳の正門」として存在し続ける・・・明治40年からずっと・・・です。

それに引きかえ・・・我が母校「東中」(東高)の門柱は・・・エライ違いですね。

人に教えると言う施設である学校がそんな事でいいのでしょうか?
読み・書き・そろばん・・・さえ教えればそれでよし!・・・ではないと思うのですが。
たかが「門柱」(の跡?)ひとつですが、そんな門柱一つに物語があると言う事に想いを馳せれない方がよほど問題だと思ってしまう年寄りの戯言でした。

あ~・・・また愚痴ってしまった、ヤバイヤバイ・・・(汗)



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