誠の心 - 永遠なれ!我が母校 倉吉市立成徳小学校 -

本格運用開始しました。 母校ネタが本旨ですが、京都橘…そしてそれ以外のネタ、なんでもござれです! 基本「自由」…でも「何でもアリ」ではないのでその点ご注意を。

カテゴリ: 成徳小学校

2019年3月3日 ヤフーブログより引っ越し


2018/7/29(日) 午後 11:24


ども、今日「も」成徳ネタです。

「京都橘ネタ」を期待していた方々・・・すみません。

あっ!その前に、いつもの長~いお説教・・・いやいや、前置きを少々。
(長い前置きを「少々」って変な日本語ですよね!すみません)

先日なんと!とうとう「訪問者」3桁突破致しました(1日の)
PVの3桁突破は既に達成だったのですが、「訪問者」は初だったので。
いやいや、まさかそんな日が来るなんて・・・。
と諸手を挙げて喜んでるわけではないんですけどね!
基本的に「成徳小学校」・・・つまり母校の応援ブログと言うのが第一義の趣旨なので、おそらくこの数値は「京都橘」目当ての方々が成しえた数値と言えるので、嬉しいやら、ちょっと残念かも・・・みたいな、微妙な心境です(笑)
まあ、とは言いつつも沢山の方に来ていただけると言う事は幸せなコトであります!
ありがとうございました。
しかーし!恒例の「アクセス解析」を見るに・・・私のこのブログの訪問者・・・ほぼ主力は「50代」の方なんですよね!
大体少なくて5割、多いときはほぼ9割以上、平均してもやはり7割くらいの方が50代ですね。
まあ、私自身が50過ぎのオッサンですから、それはそれでいいのですが、今度は記事アクセスランキングを見るとほぼ1位~10位までのランキングの中で、ここ最近は特にほぼ8~9割方「京都橘」記事が独占してる状況であります。
つまり、7~8割くらいの50過ぎのオッサン(多分)連中が10代の若い姉ちゃんの話題に貪るように食いついてるわけです!!
う~ん・・・ちょっと雲の上に乗っかって上から目線と言うか、第三者としてその光景を側から想像すると・・・かなり「キモい」(笑)
もちろん「私自身」も含んでですけどね。
髪の毛が寂しくなってきたり、生活習慣病で何かと制限されたり、ギトギトの脂ギッシュな中高年が・・・と冷静に想像すると・・・改めて・・・やはり「キモい」(爆)

記事を書いてる私自身もそんな中高年の一人ですからね!そんな私自身も周りから冷静に見られたら・・・「キモい」んでしょうねぇ~!
あ~悲しい現実だ。
でも、思うに・・・きっとそうした人生・社会の荒波を懸命にかいくぐって来た50代の野郎どもがふと己の人生を振り返った時、忘れてしまった、失ってしまった青春の何某か?を「京都橘高等学校吹奏楽部」のオレンジの悪魔達に見出したんでしょうね。
あの損得を超えた一途でひたむきな姿勢に。
そこがきっと、「汚い大人」になってしまった己自身の心が洗い流されるような、そんな想いが湧いてくるのだと思います。
(まあ、どう思おうが結局は人それぞれなんですけどね)

まあ、何はともあれ、これからも「若いお姉ちゃん」を共に追っかけて行きましょう!!(ただのエロおやじと化してしまいました)

と言いつつ、でも今日は「成徳」ネタですからね!すみません。

さて、恒例の・・・
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【拡散希望】成徳卒業生の皆さん、母校の本当の「1番」の存在を知り、正しい事実をしっかり後世に伝えましょう、それが先輩の務めです。

「椎の木園」・・・

何かどこかで聞いたような?・・・と思ってたんですが、
成徳小学校の体育館の前の広場を「椎の木園」って呼んでたんですね。
すっかり忘却の彼方でした。
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平成30年現在の「椎の木園」現況です(本年2月頃撮影)
見ての通りで、今やただの「駐車場」と化しております。
ちなみに・・・私が在学中(昭和40年代後半)のここをほぼ同アングルでみたのがこちら。
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成徳小学校旧・校門(正門)です。
私が入学した時から卒業まで、成徳の「校門(正門)」と言えばここでした。
なので、一般的に登下校時に使っていた例の地下道(スロープ)入り口はただの勝手口となりますのでお間違いのないように。
(と言いつつ、今や既に地下道自体が消滅してますが)
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と、このように昭和39年の新「校旗」授与式を終え、成徳に帰還する「旗衛隊」の姿です、この時は既に旧・新校舎が建築されてましたので、白亜時代の「校門(正門)」は既に塞がれて存在しておりません。
なので、先に掲載した「復元なった校門柱」の画像にある場所、当時はただの「通用門」でしたがこちらの入り口からの帰還となったわけです。
なので、上記画像も地下通路側ではなく、公園入り口側の入り口方向へ向っているわけです。
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上画像の概ねの見取り図となります。

さて、「椎の木園」ですが、私が入学当時は別段何があるわけでもなく、椎の木と庭に置くのに程よい大きさの岩?がゴロゴロしてるようなただの広場だったのですが、
それなりに広さがあったので、よく鬼ごっこなどをして遊んでました。

ところが・・・昭和50年・・・
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何事?えらい大きい石が運ばれてきたけど?・・・
などと思っているうちに、あれよあれよと言う間に・・・
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こんなコトに。
今まで知らなかったんですが、この「自学・自治・創造」の石碑って「教学の碑」って名称だったらしいです。新発見?(笑)
新「校旗」授与の画像にある案内板はまだこの時も存在しておりました。
で、この事業を牽引したのが・・・
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出たぁ~!!またまた登場我らが「井口校長先生」!!!

井口校長先生との心温まるお話は・・・
校長室へGO! または 「10メートル」事件 とか 校長室リターンズ! 

そして 半世紀ぶりの現場 等の既出の記事をお読み頂ければよいかと?

純粋な小学生が「大人の事情」で翻弄され、関わった生徒達のそれぞれのその後の人生が大きく様変わりしていく壮大な物語・・・(爆)

まあ、それはよいとして・・・
これ以降せっかくの広場もこの石碑が場所を取ってしまって、甚だ邪魔なコトこの上ないって状態でした。
しかも小学生ですから、こんな物が出来たらそりゃ~もう・・・当然ながら上に昇りますよね!普通(笑)、よく怒られました。
って事で、あまり良い記憶はないのですが、今は平成白亜校舎新築に伴って、現在は平成白亜校舎校門脇に鎮座しております。
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こんな現況ですね!既に既出ですがこの「三点セット」で(笑)

で、諸々移動・集約するのはいいのですが・・・じゃあ空いたスペースは??
って見てみると・・・「駐車場」。
一体誰の為の駐車場??

既出 ろくむし から。
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どうりで妙な具合だと、武家屋敷から移植した由緒ある「椎の木」やら「教学の碑」などが点在した広場を・・・ただの「駐車場」に・・・。
一体誰の為の駐車場なんだ?これは。
市役所を訪れる客(市民)の為?・・・だったら他のところを造成しろって!
成徳の職員の為?、私達の時代に建ってた「旧・西校舎」を壊して校舎1棟分裁判所側へ敷地が広くなっとるだろ?。
どうも、この辺り・・・キナ臭い匂いがプンプンするんですよねぇ~。
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この部分も実は当初からなんか「怪しいなぁ~?」って感じてたんですよね。
もちろん、昭和と違い今は平成・・・バリアフリーだの障害者の為に云々・・・と言うのが流行りですから当然、そういった人達が困らないインフラ等を整備すると言うのは甚だ結構だと思うのですが、小学校って通常「健康体」の生徒が通いますよね。
もちろん多少の障害がある生徒も通ってはいるんでしょう。
でも、その比率ってどの程度なんでしょう?在校生の半分は障害者・・・なんて学校は通常は無いはずです。
いわゆる「一握り」の比率だと思うのですが、ではそんな「一握り」の生徒のためにこれだけ広大な立派なスロープ作りますか?普通。
プロ市民曰く・・「全て市民の血税から・・・」です。(この台詞大嫌いなんですけどね、あえて使ってみます)
身体の不自由な人の敵だ!・・・と思うならご勝手に。
私は別に身障者を悪者扱いしてはいません、ただただでさえ少子化で生徒数が激減している中、その比率ってどの程度の物なの?、恐らく相当%としては低いと思います、もしくは「ゼロ」に近いのでは?
だとしたら?一体そのスロープはいつ・誰の為のスロープなんだ??・・・と。
父兄その他でそういった方が・・・と言う意見もあるかもしれませんが、いつ来るやも知れぬそんな不透明なものに、それこそ「市民の血税を使って」たまにしか使わない相当立派な施設を作る意味がわかりませんね。
成徳の現役生徒の半数以上が「身障者」です!・・・と言うなら話はわかりますけどね。でもそんなわけないですよね。
だったら、一体何の目的でそんな広大かつ立派な・・・普通ここまで立派な永久施設的に作るのは不特定大多数が日常的に訪れる場所・・・つまり「病院」とか、あとは「市役所」「区役所」「地方事務所」・・・等々、そういった施設しか必要ありません。
個人の家にいつか身体の不自由な人が訪れることもあるだろうから・・・と言ってわざわざン十万円も掛けてスロープ作らないでしょ?
なぜなら、恒常的にそんな人がくるわけがないからです。
学校も同じです、通常はその殆どが健常者です。もちろん一部には不自由な生徒さんも存在するでしょう。
ならば、その人達のためにはもっと小規模の施設でも全然構わないのではないですか?
答えはひとつ!まさに 「市役所の陰謀」ですね!(決め付けちゃった・笑)
そのうち成徳を廃校にして追い出した後の校舎利用の事も既に計画に入ってるんでしょう。だから今の内に「倉吉市役所・西庁舎」として最小限の改造で済むようにあらゆる施策が闇でなされているのかも?
おのれ!・・・いつか化けの皮を剥いでやる(今日も市役所はヒールとなってしまいました)

あ~!いかん、いかん。
市役所の事となるとつい熱くなって・・・失礼しました。
さて、話は続きますが、この「椎の木園」
そもそも何故「椎の木園」なのかと言うと、この広場の一角に椎の古木があるんです。
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「陣屋のシイ」と言われているんですが、かつてこの成徳小学校が明治初期に開校される以前の江戸時代、倉吉統治を任された池田家家老「荒尾氏」の陣屋があった場所で、陣屋当時からここに植生していたといわれる古木です。
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今は少し幹も太くなって葉も青々としてますが、私が在校してた頃はもう正に今にも枯れ果てそうな様相を呈してましたね。
大雪でも積もったら一気に折れるんじゃないか?ってくらい弱々しかったですね。
それが保護されたのかどうなのか?あれから40年以上の月日が経ちますが、幹も太くなり立派ですね。
そういった「由緒」正しい木が植生しているこの場所を「椎の木園」と呼称して、庭園化チックにしていたわけです。
もちろん、その後「成徳校門(正門)」も並列して移設・開設されて益々「由緒」正しい地域になったわけなのに・・・。
そして、もう一つ!
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当時、体育館のまん前、広場の中央にこの今にも枯れ果てそうな椎の木が植えてありました。
後で聞いたらどうやらこの説明のような来歴のある椎の木だそうで・・・結局在校中もそんなに立派な木には見えなかったんですが・・・
それから20年近くたった平成5年の状況です。
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いやいや見違えるように立派に蘇りましたね。
枝も伸びで葉もふさふさになってます・・・が、この「椎の木」・・・一体どこに行ったんでしょうね?
だって考えてみてください、今ここ・・・「駐車場」ですよ!
由緒正しい「武家屋敷」からわざわざ寄贈・移植までした古木・・・30年近い月日を経てようやく元気を取り戻し緑の葉を青々と蔽い茂らせていたのに・・・今はいずこへ??

今や、かつて「椎の木園」と呼ばれた敷地は、アスファルトに覆われた無機質なただの「駐車場」が広がるばかりです。
これも恐らく将来的に「市役所・西庁舎駐車場」への布石の一環なのでしょうきっと。
それと「多行松」・・・どこいった?
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>成徳公民館フォトギャラリーに掲載してあった文

実は、大正4年に大正天皇ご即位記念として植樹された多行松なんです。
100年近く成徳小学校の子どもたちや地域を見守っていた多行松ですが、校舎新築に伴い体育館前にある銀杏の木付近に移植されます<
ってあったのに、何処を探しても・・・ない。これも成徳市役所化計画の一端なのか!?。
でも最近ちょっと発見したのですが・・・
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えっ?これ??・・・これって「苗木」じゃん?(笑)
どこが移植やねん!!!(突然大阪弁)
きっとこれで誤魔化そうと思っているに違いない!
姑息なり!「倉吉市役所」!!

と、やはり最後は妄想・独りよがりの方が強くでてまた市民の見方「倉吉市役所」が悪者になってしまいました、すみません。
何度も言いますが、私のブログ内では永遠に「ヒール」扱いなので、その点ご理解を。
まあ、まさかこの私の勝手な「妄想」が本当であるわけがなく、すべてフィクション・思い込み・勝手な決めつけですから、誰も本気で相手にしないのでご安心を・・・。

・・・ふっふっふ・・・


2019年3月3日 ヤフーブログより引っ越し


2018/7/28(土) 午前 1:48


どうも。
全く毎日毎日暑い日が続きますね!
40℃が当たり前の世の中になりそうな気配で末恐ろしい限りのこの頃ですが・・・。

さて、本日は久々の・・・と言うか本来の「成徳ネタ」です。

とは言っても「小ネタ」ですけどね。
その前に・・・
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※忘れてました!(笑)、今後「成徳ネタ」の際は冒頭にこちらを掲載することに致しました。(記事の内容の如何を問わずです)
成徳卒業生の皆さん、母校の本当の「1番」の存在を知り、正しい事実をしっかり後世に伝えましょう、それが先輩の務めです。

さて、本日のお話・・・

成徳の卒業生・・・特に昭和50年以降に卒業された方なら記憶にあると思うのですが、成徳の体育の服って・・・何色でした?

平成の現在、成徳の「体育服」はご存知「黄色」です。
成徳カラーだそうですが、私もそれにちなんで、このブログの画面の左右の色・・・成徳カラーの「黄色」にしております、気づかれた方います?(笑)
ちなみに蛇足ながら、私のアイコンの成徳の校章の周りの色・・・これも「校旗」にちなんでこのカラーにしております、これまた気づかれた方・・・おられます??

まあ、それはいいとして。

さて、この「成徳の黄色」ですが・・・
私の記憶では、確か4年生の終わりか5年生の時に始まったんですよ。
それもいきなり(笑)

「今度から体育の時にはこのシャツを着るようになりました」・・・みたいな宣言・宣告に近いような言い回しで先生に告知された記憶があります。

「ん?なに?どれどれ」と見てみたら「黄色のシャツ」・・・

「おい、なんだあれ?勘弁してくれよ、はずかし~」って言うのが第一印象。

だって、「黄色」ですよ、黄色。

当時はまだまだ古き良き時代?昭和の香り、男尊女卑?の風潮が色濃く残っておりましたから「色」も、それは「男の色」、そっちは「女の色」と言うような区分けがありました。
世の制度としてではなく、小学生特有の男女の区別みたいなもので、「青」「緑」「黒」は男、「赤」「橙」「ピンク」は女、「黄色」はどっちでもないけど、どちらかと言えば「女の色」みたいな、そんな区分けみたいなものが不文律ではないですが、知らず知らずの内に刷り込まれていた時代でしたね。
ちなみに「茶色」は・・・「大人の色」でした。

なので、「黄色」のシャツって事になって、特に「男子」は「えぇ~!!!女の色じゃん!」みたいな気持ちになりましたね。
イメージ 1
こちらが、平成の現在の「成徳」の黄色いシャツ現況です。
ちなみに、これ以前はではどうだったのか?と言うと、
イメージ 2
こちらになります。

ちなみに、これは冬の体操着になります。(長袖・長ズボンなので)
画像説明にもありますとおり、基本形がこれで、夏場になると下が「白い」短パン、上は白のシャツとなります。
もちろん、当時の事なので伸縮性にも富んでないですし、流行の「速乾」・・・なんて機能は一切ありません!!
オール「綿」です。なので、肌触りだけはいいです(笑)
あと上のシャツは「ネル」っぽい生地だったので、若干の伸縮性はありましたが、やはり今流行りの「速乾」タイプではないので、結構蒸れました。

4年生の終わりくらいまでは、このタイプの体操着でずっと体育だったんですが、件の唐突な宣告でいきなり「黄色いシャツ」が鮮烈デビューしたわけです。

これは一体何事だったんだろう?と今更ながら思う時があるのですが、どこかの誰かがふと思いついたんでしょうね?
「学校の(カラー)ってものを制定しましょう!」・・・みたいな。
で!何故か選ばれたのが「黄色」・・・ん~不思議な結果だ。

と、悲喜こもごもなモノを内包しつつ見切り発車したわけです。

そして、手にした初めての「黄色いシャツ」・・・「ランニングシャツタイプ」でした。
まあ季節はもう段々暖かくなる季節だったので、問題は無かったのですが、やはり着始めのあの「小っ恥ずかしい」感がハンパなくて(笑)

まあ、それも段々着ている内にそんなもんかな?と思っていたのですが、やがて・・・とんでもない大事件が発生するのです。

実はそれ以前の白い体操着の時には「ランニングシャツ」と言うものがなくて、黄色になってから制定されたので、夏場・・・とにかく涼しいんですよ!(笑)
特に小学生の男子なんて元気そのものですからね!毎日大暴れしてますからまあランニングシャツの都合のイイこと。
って事で、色はとりあえず置いといて「ランニングシャツ」の機能自体は満喫していたのですが・・・

季節はやがて夏が終わり、秋を向え・・そして段々と木枯らしが舞う・・・そんな季節になりました。

ある日、ふと「そう言えばもう寒い時期になってきたけど、冬になったら服はどうなるんだ?」って話題になったのです。
以前の白い体操着の時は大体10月とか11月くらいになると衣替えではないですが、慣例で大体その辺りから夏服から冬用の長袖、長ズボンタイプに切り替わっていたのですが、件の「黄色いシャツ」に代わってから、冬はどうするのか?と言う問題に直面したのです。

何故か、それは全員半袖もしくはランニングシャツタイプしか持っていなかったんです!!
つまり「長袖」の黄色いシャツを誰一人持っていなかったんですねぇ~(爆)
このままじゃ、冬になっても半袖のまま(下は以前の白い半ズボン(短パン)でしたから問題は無かったです)だけど・・・一体どうすんだ?と。

先生に聞いてみたら、実は長袖も計画はあるんだけど、まだ製品が出来てなくて冬に間に合いそうにない・・・と言うような話で・・・。

「えぇ~!?」

まあ、漫画かコントみたいな話ですよ。

つまり、誰もが持ってない・・・と言うより、持ちたいけど「売ってない」わけです(笑)、冗談みたいな話でしょ?でも現実にあった話しなんです。

いきなり「黄色いシャツ」って言いだして強制しておいて、冬の季節が来てもその季節にあったタイプを作ってないって・・・どういうこと?ってなもんですよね。

しかも男子はほぼ「ランニング」・・・そしてやがて本格的に冬になったのですが、またこれがまるで私達の状況を見ていたかの如く、その年の冬・・・やたらに「雪」が降ったんです。
私が小学校の頃は何故かあまり「雪」が降るって事が少なかったんです。
3年生の時に珍しく豪雪だったんですが、それ以外の年はさほどでもなく、降るには降ってもそう積もるわけでもなく・・・と言った感じで、小学生当時の私としては雪遊びが出来なくて嘆いていたものです。
ところが、そんなあまり雪が降らないはずの例年だったのにその年に限ってやたらと吹雪くんですよ。
で、みんなは「半袖」・・・もう寒い寒い。

しかも、その頃妙な宗教にでもかぶれたのか?

「冬でも(薄着)で過ごそう!」・・・みたいな機運が盛り上がってきて・・・
なんでも寒いからと言って直ぐに着込むのは逆に健康の為、体作りの為には逆効果云々・・・などと喧伝しはじめて、なるべく「薄着」で「強い体」を作るのだ!・・・がスローガンのようにまかり通りだした時代でした。
それを先生達が率先して口にするものだから、生徒達はたまったもんではありません。
大人の勝手な都合で、寒い思いをするのは我々ですからね!
「寒い中でも半袖・短パンで過ごす事により、寒さに耐える強い体ができる!」

などと、わけのわからない理屈をこねられても現実問題として「寒い」わけですよこっちは(笑)
で、担当する先生はちゃっかり「長袖・長ズボン」のジャージで指導・・・
「先生、先生だけズルいじゃないですか!」と詰め寄ると、「子供は(風の子)(元気な子)だ!」と一蹴。

おかげで、5年生の冬はこの「黄色いシャツ」のせいで春まで凍えるような思いで体育をした記憶があります。

思うに、実はそんなのは呈のいい言い訳で、きっと誰かが冬物の発注をミスしてしてなかったんだろうと今もそう思ってます。
その職員のミスを誤魔化すために「子供は風の子・・・」・・・しゃらくさいわ!(怒)

ホント今でも思い出せますが、吹雪の日の体育の時間にずっと太ももやら腕なんて「鳥肌」立ちっぱなしでしたもん。収まらなかったですからね。
どれだけ寒いんだって。
もう、どうしようもなく過ごしてたんですが、ある時家で姉に言ったんです。

「いま成徳では、この雪が降るのにこんな黄色のランニングで体育せんといけんだで?寒すぎるわ」と。

すると姉は「子供は風の子・元気な子、我慢するだわ」・・・と。

こんな身近にも「洗脳」されたヤツがいたとは・・・。

もはや姉は頼りにならないと判り、途方に暮れてた時、今は亡き祖母が「どうしただいな」と聞いてきたので、思わず・・・
「もう体育の時間寒すぎて仕方がないわ」と。
祖母は「何で体動かしとるのにそんなに寒いだいや?」と。
私は、事の経緯を事細かく祖母に説明したんです、すると・・・

「あ~ぁ、そりゃいけん、いけりゃーへん!、なんだいやそりゃ、寒い時は寒いなりの格好をするもんだわい、何で我慢すっだ?着にゃいけん」・・・と。(倉吉弁)

(訳:あらら、それはダメだよ、どういう訳だ、寒い時には暖かい服装にならないと。何故我慢するのだ、着ないとダメだ)

それを聞いた時、目からウロコが3000枚・・・

祖母に勇気を貰った私は、次の体育の時もしどうしても我慢ならないくらい寒かったら絶対に上に何か着てやろうと決意しました。

そして次の体育の時・・・またしてもその日猛烈に吹雪き、しかも横殴りの雪。
旧・新校舎の外階段を歩いて体育館まで行く間にすっかり身も心も凍りつきそうでした。私はもう我慢がならん!・・・とばかりに以前の体操着の上衣を黄色いランニングの上から着こみました。
「寒いわ!もう我慢ならん」と。
周りの同級生達が「おい、そんなの着ると先生に怒られるぞぉ?」と言ってきたんですが、もう腹を括った私には怖いもんはありませんでした。
祖母の言葉が心に響いてました。
「寒い時に暖かい格好して何が悪い」・・・です。

もう破れかぶれですわ!(笑)、するとその姿を見た他のクラスメイト達が
「じゃ、俺も」「俺も」・・・と次々と上着を着だしたんです。
結局、最終的にほぼ皆着てましたね(笑)
やっぱ相当寒かったんでしょう、その後先生が来るのを待ってたんですが、来るや否や・・・「ん?何でそんな格好しとる?」と第一声。

悪びれもせずに「寒くて仕方がないからです」と答える私達

「あぁ…そ、そうか」

と、先生はたった一言そう言うなり後は黙っておられましたね。

結局その後、私達のクラスは寒いと思ったら「着る」、我慢出来るときは着ないを押し通して過ごしました。
どうも他のクラスにも多少は伝播してたようですが、他のクラスは担任が超厳しい先生だったので制圧されてしまったのかもしれません。

この平成の今の成徳のHPを見ると「黄色いシャツ」を着て元気に活動している生徒が生き生きとしていますね。
イメージ 3
私達の頃は・・・そんなでもなかったような?(笑)
平成の今現在は、下の体操着も「青い」ハーフパンツっぽい物なんですね。
多分現代の物でしょうから、伸縮性にも富んで,穿き心地もいい、しかも「速乾」タイプの非常に品質のいいものを使っているんでしょうね。
イメージ 4
それに引きかえ・・・調子こいて見切り発車したはいいけど、冬物の準備不足で生徒に耐寒訓練を強要するような計画倒れ的な発想、施策・・・未だにあの「成徳の黄色いシャツ」を見ると当時の事がまざまざと蘇ります。
ホント・・・寒かったんですよ!ハッキリ言って(爆)

そして、私達が「長袖」の「黄色いシャツ」を手にしたのは、それから1年後・・・翌年の冬、成徳最後の6年生の時でした。
「もうどちらかと言えば要らないけど?」みたいな(笑)

そんな、冗談・コントみたいなホントにあった「成徳の黄色いシャツ」の創世物語・・・。


2019年3月3日 ヤフーブログより引っ越し

2018/7/17(火) 午前 1:10


※追記あり(平成30年7月17日)最下段に記述

ども、3連休・・・ホントあっと言う間に終わっちゃいましたねぇ~
生まれてこの方50余年…土日明けと連休明けは…幾つになっても嫌な気分ですね!
さて、今回は久々に「橘ネタ」で。
と言いたいところなんですが、本日からある「決意」を抱いたので、今回は「橘ネタ」は無しです!(すみません、また次回)
ふと「原点回帰」と言う趣向の元に・・・
イメージ 1
いきなりですみません。
いつもこんな田舎のオッサンの戯言ブログにお越し頂いている方々、ありがとうございます。
アクセス解析などで見ると、最近はブログ起ちあげ当初に比べてまさに「雲泥の差」状態で、嬉しいやら困るやら・・・多少困惑しているのが現状です。
当初から殆ど注目もされる事の無い泡沫ブログだと自認しておりましたので。
ここ最近はすっかり常連の方?(と思う)も増え、何気に当方の記事などもお楽しみ頂けているようで、筆者としては小恥ずかしいような・・・そんな気分であります。
重ねて、ありがとうございます。

さて、今日はちょっと「真面目」な話です。
このブログの起ちあげの本旨は、少子化その他で衰退する我が母校である「倉吉市立成徳小学校」を卒業生として応援・盛り上げる事を主たる任務としております。
私やその他の卒業生等が思い出した事柄など、記憶のモザイクの断片を繋ぎ合わせながら往時の事を語り、またそれを後の世代に伝えていき、千代に八千代に我が母校が存続しますように・・・と願いを込めて運営しております(大袈裟ですが)
特に、私個人として我が母校の「校歌」は終戦に伴うGHQの意向にそって、その本来あるべき姿を無理矢理変更を余儀なくされ、歴史と伝統を受け継いできた先達の思いが篭った校歌1番を抹消させられ、尚且つそれが平成の今の時代においても解消されていないと言う屈辱があります。
校歌の「歌詞」に問題がある・・・と言うのが根本的な原因なのですが、それでも「かつて」あったものを「無かった」ものにするこの思考は如何なものか?と思う次第な訳であります。
一人の日本人、国民として、そして卒業生の端くれの1人として、私自身はこの校歌1番を現役時代に歌った事もありせんが(無かったものと扱われていたので)、我々の先達は皆この校歌で育ち人としての矜持を醸成してそれぞれの人生の荒波に船出していったのであります。

自分の学校の「校歌」が実は誰かの陰謀で消されてた・・・と言うのは・・・
かなりショックな出来事だと思います。
こんな映画かTVでしか見ないような出来事がホントに我が母校で起こっていたのです。
私自身も当然当時は、その存在すら全く知らなかったですし、学校の先生達からもそんな話は一切聞いたコトもありませんでした。
まさに「学校ぐるみ」で事実を隠蔽していた!!・・・と言う事になりますね。
(まあ終戦直後のことなので、昭和40年代当時の先生達も知るよしも無かったのはわかります)
ただ、悲しいのは、我が父もこの母校の卒業生です、小学校の頃その父と一緒に校歌を歌った時があったんです、でも・・・違うんです!お互いに最初に口にする「歌詞」が・・・。
これって・・・悲しいですよね!同じ学校を卒業してるのに・・・
私が1番だと思っていた「1番」は・・・実は本来の「2番」だったんです。
だから、父が歌い始めた歌詞がまさに「正しい」のです。
なのに、今の世ではそれは「間違い」とされてしまう風潮・・・おかしい、絶対におかしい・・・本当の「1番」があるのに…。

「あやにかしこき 大君の」や「みことのままに・・・」が軍国主義だ云々…って事らしいですが、おいおい。

ぶっちゃけ言わせてもらうと、平成30年の今、しかも小学生にそんな歌詞歌わせたところで「何って意味かさっぱりわからん!」・・・で、はいっ!おしまい。

です。
さらにぶっちゃけちゃうと、私自身も当時校歌を歌ってても歌詞の意味なんてさっぱり理解してなかったですからね。
って事は「意味ない」じゃん!って話になってしまいますね?
じゃあ、別に本来の「2番」が「1番」でも良いだろ?って論調になるんでしょうが、私が言いたいのは「あったもの」を「無いもの」として扱っている現状が許せないって事です。
成徳小学校120周年記念誌の冒頭に「成徳校歌 歌詞」が掲載されておりました。
そこには、しっかり「本当の1番」が堂々と掲載されておりました。
恐らく編集委員の誰かが執念で掲載を勝ち取ったのだと思います。
入学式、卒業式、公式行事で斉唱はやはり憚られるのでしょうが、せめてその存在(歌詞も含めて)だけでも現役生徒にしっかり伝えて行く事が、長い歴史と伝統を誇る我が母校に関わるものの義務だと思うのですが。
私の父も、すでに齢80後半、あと5年・・・もってくれるかどうか?甚だ親不孝な発言ですが「本当の1番」で育った卒業生も一番若い人でも既に80歳は超えてます。
せめてその全員が存命な内に、本来あるべき「1番」に市民権を付与すべきだと思うんですけどね。
もちろん、どう「受け取る」か?は・・・生徒自身です。

体育館の脇にデカデカと「校歌」が墨痕鮮やかな額装で飾ってあります。
そこにしっかり「本来の1番」を、これまた「墨痕」鮮やかに筆を走らせてもらいたいですね!
時代が時代なので、もちろん断腸の思いで斉唱は「2番」から・・・でも構わないので。あった物を「ある」としてもらいたい・・・今はそんな想いでいっぱいです。
叶うなら、親子2代、3代、運がよければ4代くらいの世代が同じ校歌を歌詞を口ずさむ事が出来る・・・素晴らしい事だと思うんですけどね。

と長々と持論を展開してしまいましたが、と言う訳で「本当の1番」を普及・浸透させる意味も兼ねて、今後UPする全ての記事の冒頭には今回冒頭で掲載した「校歌画像」を掲載致します。
訪れた卒業生の一部にでも事実を知ってもらい、少しでも認識が広がることを期待して。
なので、「東中ネタ」だろうが「京都橘ネタ」であろうが、今後は一番最初の画像は「成徳校歌」となりますので、ご了承を。

※追記 平成30年7月17日 18:30

全てのネタ(記事)の冒頭に・・・としましたが、検討した結果
「成徳ネタ」(記事)のみに変更します。
よく考えたらその他の記事を読む人ってあまり「成徳」には関係ないですからね!
勇み足でございました、失礼しました。



2019年3月3日 ヤフーブログより引っ越し


2018/7/14(土) 午前 0:41


週末です!
先回・先々回と「旧西校舎」の事を思い出したついでに思い出したコトをあれこれ。

「工場長の娘」

工場長・・・工場?・・・と言えば、倉吉人ならまず真っ先に思い浮かべるのは何でしょう。
まあ、色々あるでしょうが私達の世代の人間ならまず「興和紡」でしょうね。

「興和紡」・・・正式名称(旧)「興和紡績株式会社」

名古屋市に本社を構える紡績企業で、昭和26年、当時の「伯耆振興工業(株)」、今の倉吉駅裏に昔から存在してる皆さんも良くご存知の「神鋼機器工業株式会社」から工場を買収、以後昭和61年に閉鎖されるまでほぼ市内中心部に存在した一大紡績工場の通称です。
「興和紡績 倉吉工場」なんて呼称をする人なんていたのかな?
まず居なかったでしょうね!倉吉人は皆「興和紡」だけで通ってましたから。
画像を見て頂けたらお分かりの通り、宮川町から、駄経寺、上灘、下田中?(の近く)、昭和町あたりにかけて占有してた巨大工場(敷地)でしたから、そりゃまあ倉吉人にとっては知らない人はいないくらいの存在感でしたね。
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こんな感じです。
既出ですが、2人の冒険 と言う記事内でも掲載した画像の一部となりますが、画面下の「上灘小学校」の敷地と比べてみてください、まあ決して「上灘小学校」が小さな学校・敷地と言うわけではありません。
ごく一般的な規模の敷地面積の小学校ですが、それを遥かに凌駕するこの広大さ!!
圧倒されますね。
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こちらは、約2年ほど前平成28年頃に撮影されたほぼ今現在の「旧興和紡」跡地上空からの空撮画像です。

昭和61年に倉吉工場が閉鎖されてから、紆余曲折あって今現在は「倉吉パークスクエア」と言う名称となりアミューズメントパーク?運動場?・・・まあ市民の文化センターのような施設となっておりますが、敷地自体の大きさはこうしてみる限り「興和紡」時代をそのまま踏襲している感じです。
しかし、本当この辺り今となっては「一等地」ですよね。

さて、今日のお題・・・「工場長の娘」・・・毎度お約束の長い前置きとなりましたが、
倉吉人にとって「工場」と言えばまず「興和紡」と言う前提でのお話。

私が成徳の2年生?3年生だったかな?そのくらいの時に1人の「転校生」が来ました。女の子で名前は「Uさん」、もの凄い「可愛い」・・・と言うほどでもなかったのですが(失礼)、名古屋から来たと言うことで当時山陰の田舎モン丸出しの私達の目から見たらそりゃぁ~もう「都会の女」って雰囲気プンプンなんです。
あっ!失礼「都会の女」ではなく、「都会の女の子」でした(笑)

まあ、こう言っちゃそれまでのクラスの女の子達には申し訳ないのですが、着ている服ひとつ取っても何と言うか・・・センスが違うと言うか、垢抜けてると言うか・・・まあ、クラスの女の子達がホントただの田舎娘に見えるくらい段違いなんですよねぇ~!!これが(笑・失礼)

これで「顔」が超激カワだったら、そりゃぁ~もうまさに「マドンナ」状態だったことだったろうと思うのですが、残念ながら「顔」は・・・ちょっと可愛いくらいでした。
あっ!でも決して「ブス」ではなかったですよ!!(今更ですが彼女の名誉の為に付け足しますが)
今日はなんかセクハラ発言が乱発しておりますが、ご容赦を。
今日はセクハラしまくりますので、見ている方(特に数少ない女性訪問者の方…すみません)お覚悟を!!。

さて、彼女が転校してきてからとある日、何気に耳に入ってきたのが彼女の素性。
何と彼女はあの「興和紡」倉吉工場の工場長の娘だったのです!!!
先に説明しましたとおり、興和紡自体の本社は名古屋ですからね、エリート工場長として「君、ちょっと2・3年倉吉工場の工場長に赴いてくれないか?」・・・ってな会話が本社人事部であったかどうかなどは知る由もないですが、とにもかくにも親の転勤に伴って転校して来たという次第です。
しかし、ただでさえ「都会の女の子」と言う事で我々田舎モンの耳目を集めている彼女が、それが今度は更に「工場長の娘」・・・などと来た日にゃ・・・。
それも、誰もが知ってる「興和紡」の工場長の娘・・・。

「えぇ~い!控え控え!控えおろぅ~!このお方を何方と心得る、このお方こそ「興和紡工場長のご令嬢にあらせられるぞ~!!」

「一堂、頭が高い!!控えおろう~」

…ってなもんですわ!!(爆)

まあ実際には別にひれ伏すような卑屈な態度を取るわけでもないんですが、何となく「工場長=お金持ち=エリート」・・・みたいな図式を想像する訳です。

小学生ながら、「僕たちとは別世界の人」みたいな(笑)

まあ、そんなんでしたが彼女も取り立てて変に気取るわけでもなく、上流階級(小学生の私達はそう勝手に思ってましたが)風な態度をとるわけでもない普通の小学生の生活を送ってましたが・・・ただ・・・

超・気が強いんです!!!(爆)
お金持ちとかエリートって言う事ではなく、とにかく勝気と言うか気の強い女の子で、ちょっとした事で男子をもう叩く叩く・・・遠からず「おとこ女」と言う称号を勝ち取ったのは言うまでもありません。

まあ、気が強いと言うかいわゆる「負けず嫌い」って感じでしたね。
平成の今ならちょっと「女のくせに」とか「女だてらに・・・」など言おうものなら、即「それ、セクハラよっ!!」なんて非常に女に都合のいい呪文を唱えられてしまいますが、そこはまだまだ「昭和」。
男子も、下手すれば女子ですら普通にそういった文言・発言をしまくってましたからね!。
なので、ちょっと何かで男勝りの行動をとろうものならすぐに「ちぇ!この「おとこ女」」。みたいな事を言われるわけです。
すると、「なんですってぇ~!」ってな具合でまた喧嘩が始まる・・・と言った、ある程度時間が経ってからはもはやお馴染みの光景になってる感がありました。

私は、当然「おとこ女」は好きではないので(Uさんがではなく、「おとこ女」が)
別段興味もなく、それに共通の趣味があるわけでもなく、当然「男子」と「女子」の区別もありますから、まったく近づく事もなかったはずなんですが・・・。

ある日、誰に言われたのか?本人だったのか?周りの女子だったのか?全く記憶から欠落してるんですが、何故か「今度誕生日(Uさんの)で、パーティーやるから来て」と誘われたんです。
念を押して言いますが、これを誰から誘われたのかは一切覚えてないんですが、とにかく誕生日パーティーをやるから家に来い(行こう?)と。

「へっ?・・・俺?」

…ってな感じですよ!まったく(笑)なんで俺が??
大体、転校してきてから特段仲が良かったとか、親切にしたあげたとかって言う覚えも全くないわけで・・・そして、一番気がかりだったのは行く連中のほぼ全員が「女子」・・・つまり男子は私1人だったのが一番苦痛なところで。

男子諸君ならわかりますよね!特に昭和の男子は(笑)
女子ばっか行くところに男子1人と言う状況が如何に小っ恥ずかしい状況かと言う事を。
相当躊躇ったんですが・・・変に機嫌を損ねて学校で「おとこ女」になってもらっても困りますからね!。
それになんと言っても「工場長の娘」・・・ご令嬢です。
エリートには逆らえない悲しい田舎の小学生男子の現実がそこにありました(泣)

当日、一人で行ったのか?他の呼ばれた女子と一緒に行ったのか良く覚えてないのですが、多分女子の中の誰かが誘いにきたような気がします。
とりあえず、実家からとぼとぼと住吉町の方へ歩いていき・・・この時の経路はなんと既出ですが 2人の冒険 の時とほぼ同じ経路なんです。
まあ、「上灘小学校」までは行きませんけどね!
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こちらが、当時の工場長社宅の位置です。 
先の既出の記事のときはそのまま塀沿いをずっと上灘小学校まで歩いたと言う内容でしたが、今回はそこまで遠くに行く事もなく、また私も少しだけ成長してたので、そんなに遠くに感じませんでした(一応ギリギリ成徳校区ですし)

まあ、小学生男子なら誰もが思う感情でしょうが、女子の家に遊びに行く・・・なんてこの年頃の男子の想定には入ってないわけで・・・家(社宅)の前に行ったはよいのですが、中々踏ん切りがつかなかったのは覚えてます。
玄関前でモジモジしてるとドアがあいて「Uさん」が出てきました。
「あっ!来てくれたんだ、さあ上がってケーキあるから」と言われた途端、現金な私は「ケーキ」と言う魅惑のキーワードに酔いしれてしまいフラフラと花に吸い寄せられるミツバチのように家の中に入っていったのです。

だって・・・「ケーキ」ですよ!?「ケーキ」

昭和の40年代後半なんてまだまだそんな皆裕福ではない時代の話です。
先日の「カルピス」様 の話ではないですが、カルピスでさえまだまだ小学生にとっては高嶺の花、「高級品」扱いな時代背景です。
それが・・・「ケーキ」・・・当時の我が家では本当誕生日に買ってもらえるかもしれないって位の超高級品!!!!(どこまで貧乏なんだ)

それが、当たり前のように用意してあって、尚且つ赤の他人を招待して振舞える・・・
まさに「ザ・工場長の娘」ここにあり!ってなもんですわ。

当時彼女(Uさん)は当然工場長専用の社宅に住まっていたわけですが、さすが天下の興和紡の工場長専用社宅!!
庶民とは違います。
その直ぐ近くに一般社員(平社員)用の社宅があったんですが、それはそれはもう・・・覚えておられる方が沢山おられると思うのですが、木造平屋のそれはオンボロの家屋で・・・まあ昭和そのものって雰囲気満点でしたね。

が!しかし・・・さすがに「工場長」の社宅は違うんです!
鉄筋平屋造り、しかも広大な庭付き一戸建て。
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Uさんに促されて家に上がったんですが、上がった端から仰天です。
あの時代に部屋がほぼ全室フローリング。
考えてみてください、昭和40年代って言えば大体あの地域はほぼ日本家屋だらけで屋根は瓦葺、木造で、畳があって、縁側があって・・・って言う古来からの日本建築な日常に溢れていた時代でしたよね!
そ、それが・・・床が板張り!「なんだこれは!」ってなもんですよ。
しかも、開け放たれた窓から見える広大な庭一面に貼られている「芝生」!

「芝生の庭」・・・なんて初めてみましたよ!この時。
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これですよ?これ。
庭なんてそれまで何かの木が植えてあって、盆栽があって・・・くらいの認識しかなかったあの時代、まるでアメリカ映画を見ているような一面「芝生」の庭!!
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こ・これは・・・此処は日本か?と一瞬我を失ってしまいそうでした。

そして、目を再び部屋のテーブルに向けると・・・そこには豪勢なケーキ&オレンジジュースが!もちろん先日の「粉ジュース」ではありませんよ(笑)
まあ、それ以外にもTVか映画でしか見たコトがないような豪勢な食べ物がてんこ盛り!!
「金持ちって凄いなぁ・・・」と昭和の小学生当時に既に「格差社会」を感じ取ってしまった私でした。

まあ、そんなカルチャーショックもありながら、とにかくこうなったらこのケーキ&その他の高級そうな食い物を頂けるだけ頂いて帰らにゃ損だわ!ってな具合で飲み食いしまくりましたね。まさに「ザ・庶民」と化しておりました。

不思議なコトに、それ以来何故か何回か遊びに行ったりしてたんですよねぇ~?
確か別に「誕生日」とかじゃなくっても。
ただ、行くと必ず普段お目にかかれないような高級なジュースやらお菓子が目当てだったんだと思うんですけどね!今思うと意地汚い事この上ない、お恥ずかしい話しでございます。

それから暫くして、何故か工場長専用社宅が新規建て替えって事で場所が移動したんです。
それもなんと!「上灘小学校」のまん前(笑)
「おい!お前、どうみても上灘校区だろ?ここ?」ってなもんですよ。
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ここですよ!(笑)
もう、上灘小学校まで直線でも100m無いだろ?ってな感じのところに移動しちゃったんですよねぇ~。
でも、それでも成徳を転校しなかったですからね。
彼女的にはどんな思いだったのかは不明ですが、家の目先にある学校を尻目にどうみても2キロ近い距離を歩くこの不条理!!!残酷だぁ~!(笑)
でも、彼女もいずれまた転校する時のことを考えて、今折角こっちにきて仲良くなった友人たちとの関係を取ったんでしょうね。
こっちの新しい「工場長専用社宅」は以前の社宅と少し雰囲気が違って、やや日本家屋チックな造りに変更されてました。
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とまあこんなイメージです。
前は瓦葺の屋根ではなかったのが、瓦ではないのですが三角屋根になって普通の平屋造りチックな雰囲気でした。

もちろん
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この画像にもあるとおりで、以前にもあった「芝生の庭」も更にパワーアップした感じで、益々「金持ち感」がスケールアップしてましたね。

で、こっちに引っ越してからもちょくちょく呼ばれたのか?勝手に押しかけたのか?は覚えてないのですが、何回か遊びに行った記憶だけはあるんですよねぇ~。

まあ、そんな浮世離れした話しなんですが、今でも覚えてます。
ただ、2人の冒険  の時とほぼ同じ距離なのに、もうそんなに遠くに感じなくなってたのは、やはりそれだけ私自身が「成長」してた証なんでしょうね。

さて、こんなブルジョワ的生活をしていた(であろう)Uさんでしたが、なんと意外や意外・・・足がメチャメチャ早かったんですよこれが。
だから、いつも校内○○競走みたいな時には常に選手でしたね。

で、そんなUさんについて、今でも強烈に覚えていることがひとつだけあるんです。
成徳卒業生(昭和40~50年代)ならほぼ全員が覚えておられると思うのですが、長休憩の時間に「持久走」がありましたよね!
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どうやら、成徳のHPみたら今もやってるみたいですが・・・(驚)

もう、足の遅い私はあの時間が本当に死ぬほど嫌だったんですが、ある日の長休憩、もちろん「持久走」の時にUさん・・・パンツだったんですよ。下が。
当時は、上の成徳HP画像のような体操服ではなかったのですが、一応体操着は制定されてましたが、何故かUさんは、ほぼ上は「シミーズ?」(古い・笑)で、下は・・・な、なんとパンツ!(まだ小学校の女子なのでパン○ィではなかったです)
そんな何とも言えない格好でスタートラインに立ってるんです。
一体何事?と思ったら、どうやら「体操服」を忘れちゃったそうで・・・。
でも・・・が・・・、いやしかし!シミーズにパンツ姿はないだろ?ってなもんですよ。
まあ、まだ小学校の3年生くらいの女子ですからね、しかも「昭和」の。
そんな格好をされても、私達男子も「だから?」ってな具合で、変に興奮するでもなく「あ~忘れたんだ」くらいのリアクションで・・・。
今思うととんでもない話なんですけどね!(笑)セクハラどころか児童ポ○ノ云々・・・的なネタになってしまいそうな話しですよね!これって。
いやはや、まったくのんびりした時代だったんですね。
まったく「誰」もなんも言う事なかったですから。
って言うか、先生がそうしなさい!って指示だったらしくて、素直に従うUさんも「イヨッ!男前!!」ってな感じでしたね(おとこ女ですからね)

でも、そんなある意味愉快な格好をしていてもさすがはUさん、いつもの如くバカっ早であっと言う間にゴール!!!
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もちろんコースはこの順路なので、その愉快なスタイルのままお外へGO!なわけです。街ゆく人はどう思ったんでしょうね。
でもまあ、その後苦情が来たとかって言う話など全く噂にもならなかったので、やはりのんびりした時代だったんでしょう。

しかし「工場長のご令嬢」がシミーズ&パンツで街を練り歩く(歩いてはないですが)なんて・・・都会人(エリート)の親が知ったらどうなっていたことか・・・。

もう、多分今では本人すらすっかり忘れている出来事だと思うんですけどね。
私はけっこう衝撃的な光景だったので妙に覚えているんです。
もう45年も前の話しなんですけどね。

そんなお嬢様で、勝気で負けず嫌いで足の早かったUさんも、親の転勤には勝てずに確か卒業前の5年生が終了時点であと1年を残してまた転校してしまいました。
元いた名古屋へ帰ったと聞いたんですが、当然Uさんとはそれ以来・・・それっきりです。今のように携帯だのメールだのLINEだのと言った便利なコミニュケーションツールなど皆無の「ノンビリした昭和」ですからね。
その後どうされたのかなど噂すら耳に入って来ません。
恐らくエリート社員のご令嬢ですから、名古屋と言う都会でお美しく成長して、大学に進学でもして、今頃はどこかの大金持ちに嫁いで更にブルジョワに磨きが掛かっているかもしれませんね!!(笑)
まあ、だとしたらどうなんだ?と言われてもそれまでの事なんですけどね。

ふと、小学校の時のある一時、そんな転校生の女の子が居て、それが普段の私達とはまるで別世界のような生活を現実にしているのを目の当たりにした記憶が蘇ったので、備忘録として残しておこうと・・・。

あんな「絵」に描いた様なエリートの娘ってホントにいるんだ!って思わせてくれた忘れられない人でした。



2019年3月3日 ヤフーブログより引っ越し

2018/7/11(水) 午後 9:58


※30年7月27日 掲載画像全面「カラー化」(なんちゃって着色)しました

ども、まさかのパート2です(笑)
「旧西校舎」でこんなに盛り上がるとは思いませんでした。

さて、ではまずこちらを。
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↑こちらと、こちら↓になります。
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先回ご紹介した「旧西校舎」の各部屋の配置の説明ですが、本日は更に検証を進めて、「旧西校舎」の前身・・・「旧南校舎」としての「旧西校舎」を検証します。

>故郷は倉吉さん<と言う知り合いと白熱した議論?(笑)を交わしてるのですが、件の「校長室」「応接室」・・・そして「教頭室」の存在についても検証を重ねます。
まずはこちらを。
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これは我が母校「成徳小学校創立120周年記念誌」に折り込まれています、白亜校舎時代の各校舎の概ねの配置図です。
画像下側が北側、つまり今の市役所線の方向です、白亜校舎に向かって正門の参道が目に付きますね!!
画像右側には当時も地下道らしきものも確認出来ます。
「旧新校舎」の地下道(スロープ)も此処をそのまま利用したんですね。
さて、大まかな配置を確認して頂いた上で。
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こちらになりますが、「南校舎」は白亜校舎のちょうど真裏、今の体育館の裏、プールサイドから校舎の幅1個分校庭側にはみ出た位置あたりに建っていたようです。
(旧新校舎・旧西校舎の未来位置は概略なのでご了承を)
こちらの配置図の「南校舎」を見てみると中央付近に他のスパンと少し違う、小さな部屋が2スパン分表示してあります。
よくみるとそれぞれ「校長室」「応接室」と表記があります。
こちらの画像で言うと向かって右側赤が「校長室」左側黄が「応接室」です。
白亜校舎が解体される前に鉄筋の「旧新校舎」が完成し、その後講堂、屋内運動場、そして白亜の校舎が次々と解体されて消えていくのですが、この「南校舎」のみそれまでの場所から移動して「旧西校舎」の位置へ移築されました。
それ以降「旧南校舎は」「西校舎」として長らく存続する事になります。
こちらは「旧西校舎」ではなく、現役時代の「南校舎」です。
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私達の時代とは違い、「平成白亜校舎」「旧新校舎」と同じく、前の道路に平行した形で建っていたようですが、この画像で写っている面、つまり校庭側の面が、移築後も場所を変えながらも同じく校庭側を向くようになるようです。
もう少し見てみましょう。
イメージ 4
今度はさくら園側からみた「南校舎」です。

東の平側及びさくら園側、双方からの「南校舎」外観ですが、やはり「配置図」に示してあるとおりで、どちらの写真にも色で囲った部分「校長室」「応接室」と思われる窓スパンが確認出来ます。
「配置図」によると、1階はこの2つの部屋以外はほぼ同じ床面積の部屋が複数あるだけで、「教頭室」に相当するスペースはどうも見当たりませんね。
「配置図」の区分けをみても、ほぼ移築後の「旧西校舎」と符合しますので、やはり「教頭室」と言うものは最初から存在せず、「校長室」および「応接室」のみだったものと思われます。

時代が下がって、移築後には当時は無かった「放送室」と言う時代の先端を行く設備が導入されたので、恐らく新設・改築した「中央東側玄関(仮称)」付近に併設して増築したものと思われます。
ただ、不思議なのは>故郷は倉吉さん<のブログ内での返信にも記述したのですが、この「旧西校舎」の中央階段及び玄関ですが、「配置図」によると一切「階段」めいた記載がないのです。
階段を省略してるのでは?と思いがちですが「白亜校舎本館」、その他の校舎にも階段があったと思われるところにはその表示があります。
と言う事は、この「白亜校舎」時代の「南校舎」には「中央階段」と言うものは存在していなかった!!・・・と言う事になります。
「配置図」でも2階の「旧西校舎」で言うところの「資料室」及び「中央階段」のスパンは普通に教室として表示されております。
以上のことから、私達が在校中にお世話になった「旧西校舎」の中央階段は移築後の後付、増改築によるものと判断されます。
では、「南校舎」時代から2階建ての校舎ですが、一体どうやって上下行き来していたのでしょうか?。
ちょっと判らないのですが、ヒント・可能性として「配置図」の「南校舎」下側のそれぞれ左右の端に階段らしき表示があります。
直接「南校舎」と繋がっているような表示ではないので、なんとも断定は出来ないのですが、もしかしたら独立した「外階段」のようなものが併設してあった可能性があります。
東側(配置図向って左側)はちょっと判らないのですが、西側(配置図右側)の端に連結してある風な感じに思えるのですが、だとしたら・・・「旧西校舎」時代もちょうどこの位置に「さくら園」に抜ける出入り口が校舎外壁に開口しておりました。
もしかしたら、私達の在校中にさくら園に抜ける渡り廊下の出入り口が「南校舎」時代の外階段の取り付け口だとしたら場所的にも符合します。
だから、あんな校舎2階の一番端っこに出入り口が不自然にあったのかもしれませんね。
さくら園との渡しの廊下をつけれたのは本当たまたま位置的にも高さ的にも偶然の賜物だったのかもしれません。
いずれにせよ、外階段云々の件は今度倉吉に帰省した際に恒例の父に聞いてみようと思います。
イメージ 7
昭和50年代初頭の成徳空撮です。
既に既出ですが、かなり鮮明に「旧西校舎」が写っているので、再度引用です。
今になって気づいたんですが、こちら側(裁判所側・西側)の校舎外壁ですが、ちょうど中央付近が1階から2階部分にかけて広範囲に板張りになってますね。
窓が潰されたのか、最初からそういう造りなのかは全く不明です。
上の画像で示しているとおりで、青点線部分辺りに当時は「南校舎」として建っていたものと思われます(多少の誤差はご容赦を)
その後、白亜校舎解体に伴って移設、「西校舎」として新しい道を歩む事になったのですが、位置関係(校舎の向き等)は図で示している通りかと存じます。

こうして、戦前からの白亜校舎群の一角を成していた「旧南校舎」ですが、新校舎建設に伴う解体からも唯一免れて長らく白亜時代の威容を偲ばせていました。
もちろん、私も在校中は散々お世話になりましたし、良い意味でも悪い意味でも色々味わい深い思い出が沢山ありました。
オンボロで、薄気味悪いところもありましたがしかし、今の鉄筋の校舎にはない何とも言えない「荘厳」「厳粛」な雰囲気、正に「ザ・学校」と言う威厳に満ちた雰囲気は満点だったと思います。
今の時代、あんな経験はもう出来ないのではないでしょうか。映画のセットにでもいるみたいな感覚?でしたね。
しかし、残念ながら老朽化のために昭和55年、最後の白亜時代の建物である「旧南校舎」、当時はすでに「西校舎」でしたがとうとう解体の憂き目にあって、永遠に地上から消滅してしまいました。
昭和12年落成から43年の生涯でした。

しかし、たったの43年で老朽化・・・と言うのも凄いですよね。
今平成30年、既に解体されてから40年近く経とうとしているわけです。
存続した年数とほぼ同じ年数が既に経とうとしております。
私が高校入学の時に解体された計算になりますから、「えっそんなもん?」みたいな感覚に陥るんですけどね。
普通の民家ですら、私が高校の頃から建ってる家って実家の周りに沢山ありますよ?
しかも私が成徳在校中から存在しているような一般住宅が山ほど、でもそんなに古い感じもしませんし・・・そこのところは一体どんな事情があったんでしょうね?
ただ単に古い木造の校舎が時代遅れだから嫌!!・・・みたいな凄く簡単なお話だったのかもしれませんね。時代が時代なので。
当時は「白壁土蔵群」云々と言う話がまだそこまで具体化されて無い時代ですからね。もうあと数年持ち堪えていればまた補修・保存みたいな話も出たかも知れませんね。まったく口惜しい限りです。

まあ落成が昭和12年ですから、支那事変が勃発して良い木材とかがあまり入って来なかったんですかね?一応非常時って事で、良い木材その他は「軍」優先!!とかって。だとしたら、ちょっと劣る木材を使っての建築って事で、劣化が余りに早いのも納得いくんですけどね。
さてさて真相は如何に?・・・と言っても、既に40年以上も前に地上から消滅してしまってますから、今更・・・ですよね。

ただ、「白亜校舎」時代を全く知らない私達の世代からすると、「旧新校舎」と共に「旧西校舎(南校舎)」だけが、目を閉じれば当時の情景が目の前に浮かんでくる懐かしの我が校舎であるわけです。
しかも、「旧西校舎」は「白亜校舎」群の唯一の生き残りでしたからね!
ほんのちょっとだけ、私達の世代も「白亜校舎」時代の息吹を吸っていたのだと思うと、今更ながらもっと色々見ておけばよかったなぁ~と後の祭りのお話でした(笑)



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