2019年3月3日 ヤフーブログより引っ越し
2018/7/29(日) 午後 11:24
2018/7/29(日) 午後 11:24
ども、今日「も」成徳ネタです。
「京都橘ネタ」を期待していた方々・・・すみません。
あっ!その前に、いつもの長~いお説教・・・いやいや、前置きを少々。
(長い前置きを「少々」って変な日本語ですよね!すみません)
先日なんと!とうとう「訪問者」3桁突破致しました(1日の)
PVの3桁突破は既に達成だったのですが、「訪問者」は初だったので。
いやいや、まさかそんな日が来るなんて・・・。
と諸手を挙げて喜んでるわけではないんですけどね!
基本的に「成徳小学校」・・・つまり母校の応援ブログと言うのが第一義の趣旨なので、おそらくこの数値は「京都橘」目当ての方々が成しえた数値と言えるので、嬉しいやら、ちょっと残念かも・・・みたいな、微妙な心境です(笑)
まあ、とは言いつつも沢山の方に来ていただけると言う事は幸せなコトであります!
ありがとうございました。
しかーし!恒例の「アクセス解析」を見るに・・・私のこのブログの訪問者・・・ほぼ主力は「50代」の方なんですよね!
大体少なくて5割、多いときはほぼ9割以上、平均してもやはり7割くらいの方が50代ですね。
まあ、私自身が50過ぎのオッサンですから、それはそれでいいのですが、今度は記事アクセスランキングを見るとほぼ1位~10位までのランキングの中で、ここ最近は特にほぼ8~9割方「京都橘」記事が独占してる状況であります。
つまり、7~8割くらいの50過ぎのオッサン(多分)連中が10代の若い姉ちゃんの話題に貪るように食いついてるわけです!!
う~ん・・・ちょっと雲の上に乗っかって上から目線と言うか、第三者としてその光景を側から想像すると・・・かなり「キモい」(笑)
もちろん「私自身」も含んでですけどね。
髪の毛が寂しくなってきたり、生活習慣病で何かと制限されたり、ギトギトの脂ギッシュな中高年が・・・と冷静に想像すると・・・改めて・・・やはり「キモい」(爆)
記事を書いてる私自身もそんな中高年の一人ですからね!そんな私自身も周りから冷静に見られたら・・・「キモい」んでしょうねぇ~!
あ~悲しい現実だ。
でも、思うに・・・きっとそうした人生・社会の荒波を懸命にかいくぐって来た50代の野郎どもがふと己の人生を振り返った時、忘れてしまった、失ってしまった青春の何某か?を「京都橘高等学校吹奏楽部」のオレンジの悪魔達に見出したんでしょうね。
あの損得を超えた一途でひたむきな姿勢に。
そこがきっと、「汚い大人」になってしまった己自身の心が洗い流されるような、そんな想いが湧いてくるのだと思います。
(まあ、どう思おうが結局は人それぞれなんですけどね)
まあ、何はともあれ、これからも「若いお姉ちゃん」を共に追っかけて行きましょう!!(ただのエロおやじと化してしまいました)
と言いつつ、でも今日は「成徳」ネタですからね!すみません。
さて、恒例の・・・
【拡散希望】成徳卒業生の皆さん、母校の本当の「1番」の存在を知り、正しい事実をしっかり後世に伝えましょう、それが先輩の務めです。
「椎の木園」・・・
何かどこかで聞いたような?・・・と思ってたんですが、
成徳小学校の体育館の前の広場を「椎の木園」って呼んでたんですね。
すっかり忘却の彼方でした。
平成30年現在の「椎の木園」現況です(本年2月頃撮影)
見ての通りで、今やただの「駐車場」と化しております。
ちなみに・・・私が在学中(昭和40年代後半)のここをほぼ同アングルでみたのがこちら。
成徳小学校旧・校門(正門)です。
私が入学した時から卒業まで、成徳の「校門(正門)」と言えばここでした。
なので、一般的に登下校時に使っていた例の地下道(スロープ)入り口はただの勝手口となりますのでお間違いのないように。
(と言いつつ、今や既に地下道自体が消滅してますが)
と、このように昭和39年の新「校旗」授与式を終え、成徳に帰還する「旗衛隊」の姿です、この時は既に旧・新校舎が建築されてましたので、白亜時代の「校門(正門)」は既に塞がれて存在しておりません。
なので、先に掲載した「復元なった校門柱」の画像にある場所、当時はただの「通用門」でしたがこちらの入り口からの帰還となったわけです。
なので、上記画像も地下通路側ではなく、公園入り口側の入り口方向へ向っているわけです。
上画像の概ねの見取り図となります。
さて、「椎の木園」ですが、私が入学当時は別段何があるわけでもなく、椎の木と庭に置くのに程よい大きさの岩?がゴロゴロしてるようなただの広場だったのですが、
それなりに広さがあったので、よく鬼ごっこなどをして遊んでました。
ところが・・・昭和50年・・・
何事?えらい大きい石が運ばれてきたけど?・・・
などと思っているうちに、あれよあれよと言う間に・・・
こんなコトに。
今まで知らなかったんですが、この「自学・自治・創造」の石碑って「教学の碑」って名称だったらしいです。新発見?(笑)
新「校旗」授与の画像にある案内板はまだこの時も存在しておりました。
で、この事業を牽引したのが・・・
出たぁ~!!またまた登場我らが「井口校長先生」!!!
井口校長先生との心温まるお話は・・・
校長室へGO! または 「10メートル」事件 とか 校長室リターンズ!
そして 半世紀ぶりの現場 等の既出の記事をお読み頂ければよいかと?
純粋な小学生が「大人の事情」で翻弄され、関わった生徒達のそれぞれのその後の人生が大きく様変わりしていく壮大な物語・・・(爆)
まあ、それはよいとして・・・
これ以降せっかくの広場もこの石碑が場所を取ってしまって、甚だ邪魔なコトこの上ないって状態でした。
しかも小学生ですから、こんな物が出来たらそりゃ~もう・・・当然ながら上に昇りますよね!普通(笑)、よく怒られました。
こんな現況ですね!既に既出ですがこの「三点セット」で(笑)
で、諸々移動・集約するのはいいのですが・・・じゃあ空いたスペースは??
って見てみると・・・「駐車場」。
一体誰の為の駐車場??
既出 ろくむし から。
どうりで妙な具合だと、武家屋敷から移植した由緒ある「椎の木」やら「教学の碑」などが点在した広場を・・・ただの「駐車場」に・・・。
一体誰の為の駐車場なんだ?これは。
市役所を訪れる客(市民)の為?・・・だったら他のところを造成しろって!
成徳の職員の為?、私達の時代に建ってた「旧・西校舎」を壊して校舎1棟分裁判所側へ敷地が広くなっとるだろ?。
どうも、この辺り・・・キナ臭い匂いがプンプンするんですよねぇ~。
この部分も実は当初からなんか「怪しいなぁ~?」って感じてたんですよね。
もちろん、昭和と違い今は平成・・・バリアフリーだの障害者の為に云々・・・と言うのが流行りですから当然、そういった人達が困らないインフラ等を整備すると言うのは甚だ結構だと思うのですが、小学校って通常「健康体」の生徒が通いますよね。
もちろん多少の障害がある生徒も通ってはいるんでしょう。
でも、その比率ってどの程度なんでしょう?在校生の半分は障害者・・・なんて学校は通常は無いはずです。
いわゆる「一握り」の比率だと思うのですが、ではそんな「一握り」の生徒のためにこれだけ広大な立派なスロープ作りますか?普通。
プロ市民曰く・・「全て市民の血税から・・・」です。(この台詞大嫌いなんですけどね、あえて使ってみます)
身体の不自由な人の敵だ!・・・と思うならご勝手に。
私は別に身障者を悪者扱いしてはいません、ただただでさえ少子化で生徒数が激減している中、その比率ってどの程度の物なの?、恐らく相当%としては低いと思います、もしくは「ゼロ」に近いのでは?
だとしたら?一体そのスロープはいつ・誰の為のスロープなんだ??・・・と。
父兄その他でそういった方が・・・と言う意見もあるかもしれませんが、いつ来るやも知れぬそんな不透明なものに、それこそ「市民の血税を使って」たまにしか使わない相当立派な施設を作る意味がわかりませんね。
成徳の現役生徒の半数以上が「身障者」です!・・・と言うなら話はわかりますけどね。でもそんなわけないですよね。
だったら、一体何の目的でそんな広大かつ立派な・・・普通ここまで立派な永久施設的に作るのは不特定大多数が日常的に訪れる場所・・・つまり「病院」とか、あとは「市役所」「区役所」「地方事務所」・・・等々、そういった施設しか必要ありません。
個人の家にいつか身体の不自由な人が訪れることもあるだろうから・・・と言ってわざわざン十万円も掛けてスロープ作らないでしょ?
なぜなら、恒常的にそんな人がくるわけがないからです。
学校も同じです、通常はその殆どが健常者です。もちろん一部には不自由な生徒さんも存在するでしょう。
ならば、その人達のためにはもっと小規模の施設でも全然構わないのではないですか?
答えはひとつ!まさに 「市役所の陰謀」ですね!(決め付けちゃった・笑)
そのうち成徳を廃校にして追い出した後の校舎利用の事も既に計画に入ってるんでしょう。だから今の内に「倉吉市役所・西庁舎」として最小限の改造で済むようにあらゆる施策が闇でなされているのかも?
おのれ!・・・いつか化けの皮を剥いでやる(今日も市役所はヒールとなってしまいました)
あ~!いかん、いかん。
市役所の事となるとつい熱くなって・・・失礼しました。
さて、話は続きますが、この「椎の木園」
そもそも何故「椎の木園」なのかと言うと、この広場の一角に椎の古木があるんです。
「陣屋のシイ」と言われているんですが、かつてこの成徳小学校が明治初期に開校される以前の江戸時代、倉吉統治を任された池田家家老「荒尾氏」の陣屋があった場所で、陣屋当時からここに植生していたといわれる古木です。
今は少し幹も太くなって葉も青々としてますが、私が在校してた頃はもう正に今にも枯れ果てそうな様相を呈してましたね。
大雪でも積もったら一気に折れるんじゃないか?ってくらい弱々しかったですね。
それが保護されたのかどうなのか?あれから40年以上の月日が経ちますが、幹も太くなり立派ですね。
そういった「由緒」正しい木が植生しているこの場所を「椎の木園」と呼称して、庭園化チックにしていたわけです。
もちろん、その後「成徳校門(正門)」も並列して移設・開設されて益々「由緒」正しい地域になったわけなのに・・・。
そして、もう一つ!
当時、体育館のまん前、広場の中央にこの今にも枯れ果てそうな椎の木が植えてありました。
後で聞いたらどうやらこの説明のような来歴のある椎の木だそうで・・・結局在校中もそんなに立派な木には見えなかったんですが・・・
それから20年近くたった平成5年の状況です。
いやいや見違えるように立派に蘇りましたね。
枝も伸びで葉もふさふさになってます・・・が、この「椎の木」・・・一体どこに行ったんでしょうね?
だって考えてみてください、今ここ・・・「駐車場」ですよ!
由緒正しい「武家屋敷」からわざわざ寄贈・移植までした古木・・・30年近い月日を経てようやく元気を取り戻し緑の葉を青々と蔽い茂らせていたのに・・・今はいずこへ??
今や、かつて「椎の木園」と呼ばれた敷地は、アスファルトに覆われた無機質なただの「駐車場」が広がるばかりです。
これも恐らく将来的に「市役所・西庁舎駐車場」への布石の一環なのでしょうきっと。
それと「多行松」・・・どこいった?
>成徳公民館フォトギャラリーに掲載してあった文
実は、大正4年に大正天皇ご即位記念として植樹された多行松なんです。
100年近く成徳小学校の子どもたちや地域を見守っていた多行松ですが、校舎新築に伴い体育館前にある銀杏の木付近に移植されます<
100年近く成徳小学校の子どもたちや地域を見守っていた多行松ですが、校舎新築に伴い体育館前にある銀杏の木付近に移植されます<
ってあったのに、何処を探しても・・・ない。これも成徳市役所化計画の一端なのか!?。
でも最近ちょっと発見したのですが・・・
えっ?これ??・・・これって「苗木」じゃん?(笑)
どこが移植やねん!!!(突然大阪弁)
きっとこれで誤魔化そうと思っているに違いない!
姑息なり!「倉吉市役所」!!
と、やはり最後は妄想・独りよがりの方が強くでてまた市民の見方「倉吉市役所」が悪者になってしまいました、すみません。
何度も言いますが、私のブログ内では永遠に「ヒール」扱いなので、その点ご理解を。
まあ、まさかこの私の勝手な「妄想」が本当であるわけがなく、すべてフィクション・思い込み・勝手な決めつけですから、誰も本気で相手にしないのでご安心を・・・。
・・・ふっふっふ・・・