誠の心 - 一致団結!倉吉市立成徳小学校卒業生-

本格運用開始しました。 母校ネタが本旨ですが、京都橘…そしてそれ以外のネタ、なんでもござれです! 基本「自由」…でも「何でもアリ」ではないのでその点ご注意を。

カテゴリ: 成徳小学校

旭日旗2-860
明けましておめでとうございます

令和2年の幕開けです。
と考えると…5月に平成から令和になった訳で、令和元年はたったの7か月…そりゃ早いですわ(笑)

と、のっけから脱線?気味ですが、
改めて新らしい年を迎えるにあたり、お越しになる皆様にはいかがお過ごしでしょうか?

冒頭からいきなり巨大な「旭日旗」…
…まあ、なんというか…簡単に言えば、某隣国に対する当てつけです!(キッパリ)

私「愛国者」なんで!

一昨年初頭からブログ開設以来、じわじわと訪問者数も増加して、今では連日コメントがくるようなブログに変貌してしまいました。
まことにもってありがたい事で、これもひとえに京都橘ファンと言う、ある意味強烈な思い込み、妄想癖、果ては超絶変態嗜好をもつ膨大な老人(主に)達相手に日々悪戦苦闘している私自身の努力の賜物…?

ん?あれ??何か間違ったぞ!?

と、冗談はさておき、日々訪問者・コメント主各位さまの温かいく、また力強いお力添えのお陰と思っております。
(ん~…ちょっと取り繕い感満点でしたね・笑)

既にご承知の通り、「京都橘」ネタの記事としては、先の夏からずっと更新も滞り、待ち侘びておられる方も多数おられる事と存じます。
今しばらくお待ちください。

今回はブログもほぼ実質活動期間が丸2年を迎えようとしており、また改めて年頭にあたるこの時に、初心を忘れないよう、本来の筋を通そうと思い更新致しました。

って事で、今回は「京都橘」ネタではありません!
残念でございました。

今回は、このブログの本旨である我が母校「倉吉市立成徳小学校」ネタでございます。

全く興味のない方には、まさに「クソ面白くもない」話・内容であります。
って事で全然「スルー」して頂いて結構ですよ!(笑)

ただ、年の始め…一年の計は元旦にあり!ではありませんが、昨年はほぼ年を通して「橘ネタ」で終始したような感じでしたので、今一度初心に帰って…と言った趣向です。

忘れてはならぬのです!

そう、ここは…「京都橘高等学校吹奏楽部の応援特化ブログ

ではないのです!!(キッパリ)

そうなんです!私自身も、そしてお越しになる皆様も今一度…ここは…
成徳小学校応援ブログなのです。

って事で、前置きが長くなりましたが、年の初めはやはり初心に戻り「母校」ネタで…と言うところです。

さて、大晦日から僅か二泊三日の日程でしたが、帰省して参りました。
年寄り夫婦が住むだけの実家、特に何をするでもなく、大晦日のよるは両親は「紅白」、私は紅白もダウンタウンもどちらも見ない派な人なので、ずっとタブレットでYouTube見て過ごしてました。
気付けば知らぬ間に年を越え…まあ、なんとも風情もクソも無い年越しでございました。

元旦はそのままダラダラと寝過ごして、あっという間に帰宅の日…
倅と一緒に帰省したんですが、このグウタラ息子も同じくゲームばかりしてる放蕩三昧のロクでなし!
まあよく似た親子そのものって感じです。

わざわざ実家に帰省している訳ですから、何かしなきゃ!と一念発起。
とりあえず「正月」と言えば…初詣でしょ!ってなもんで、近場の氏神様へ初詣。
大晦日から2晩も経ってますから、昼間と言えどもそこはやはり「田舎」の神社…もう人気はどこえやら?って感じで、行列ができるでもなく、誠にスムーズに本殿社殿へ到達!!
参拝後は恒例の「おみくじ」…なんと私今年の運勢は「大吉」…だそうで!思わず…

一昨年じゃなきゃダメなんです!」(泣)←(何泣きなん?それ?って絶対言ってくる・笑)

どうして、一昨年の定演の時にその運が巡って来なかったんだぁ~!!!…と年明け早々に神様を恨む始末。

まあ、人生そんなもんですわ!
それに「大吉」出ましたが、何処まで当たるかどうか…

って感じで、その後足を延ばして当ブログの主人公、我が母校「成徳小学校」に久々に行って参りました。
1月2日正門2-860
令和2年の我が母校…今年は147歳?だったかな。

因みに、今回は思い切って校内(と言っても校庭までですが)にも入ってみました。
懐かしい景色を久々に見て、過ぎ去った少年の頃の記憶が・・・
成徳俯瞰2-860全体
今回の撮影ポイントはこちら
まあ学校内に入っちゃいましたけど、門扉が閉じられているわけでもなく、当然冬休み、しかも正月ですからね!当然校内には猫一匹いませんでしたよ?。
そもそもうちの小学校って…いわゆる「塀」がないんですよ!昔から(笑)
だから仮に正面方向に塀があっても南側(打吹山方向)には打吹公園が隣接してるので、そっちから地続きで出入り自由なわけで…平成…いや令和の時代の学校セキュリティーを考慮すると…ん~どうなのよ?って気にもなりますが、そんな牧歌的な我が母校のゆる~い所もまたご愛敬ってとこですかね。
もちろん、各校舎は施錠されているものと確信をしております。
(ドア開けたりなんて動作してないので推測ですが・笑)
ただ、「防犯カメラ作動中」って言う表示はあったので、その辺のところは「ああ、やはり今の時代の学校だな」と妙に感心したりして。
倅も一緒だったのでちょっとした「偽装工作」?(笑)ではありませんが、何か問い詰められたら「卒業生で、懐かしいから写メ撮ってました」と正直に言えばいいや!…と(爆)

まあ、そんなこんなで、いつもは外から新築された平成白亜校舎を眺めていただけだったんですが、今回は校庭の端まで進出して、何十年ぶりに見た景色を皆様に…(って何の感動もないでしょうけどね)
因みに、上記画像と下画像の撮影ポイントの詳細はこちら
成徳俯瞰1正門2-860
こんな感じになります。

さて、やはりまず目につくのは「正門」

1月2日正門3-860


初期の頃の記事でも紹介しましたが、この門柱…建立は明治41年、日露戦争が終わったすぐの頃ですね。学校自体は明治六年創立なんですが、それから35年ほど経ってから建立された訳です。
実はこの正門、平成…いや今はもう令和ですね!この令和の時代には現状のこの位置に林立しておりますが、私が現役生で在校していた当時は別の位置にありました

白亜校舎(正門)1
こちらは、昭和30年代に撮影された、旧・白亜校舎を擁する我が母校の往時の全景画像です。
まさに戦前の小学校らしい、重厚かつ威厳を伴う雰囲気満点な感じです。
表通りに面した正門から一直線に続く参道のような建物構成、そしてその参道両脇にそびえる白亜の校舎…映画のセットのような感じです。

昭和50年正門1-860



昭和50年前後の空撮写真となりますが、昭和39年に旧・白亜校舎の取り壊しに伴い、私達が学んだいわゆる「旧・新校舎」が建立されました。
それと同時に表通りに面した位置にあった正門は一時撤去され、数年後上記画像にある位置へ移設されたわけです。
私はこの画像の構成のまま入学・卒業しましたので、在学中はずっと体育館脇に正門がありました。
元の正門の場所は、周りの石垣(陣屋時代の石垣)と同じように偽装され塞がれたわけです。

やがて40数年の時を経て、数奇な運命を辿った我が母校の「正門」は、平成の終わりにまた本来の位置である表通りへ…そしてただ単に表通りに移設されたのではなく、その建立位置も旧へ復されたのであります。

まさに「奇跡の復帰」と言っても過言ではありません。

さて、今回は正門以外にもあれこれ見回した箇所がありますので、先に進みます。
撮影ポイント及び方向等は画像番号等を参照ください。
成徳俯瞰2-860校庭
まずは東側から


校庭体育館側3番-860
これは、校庭から南側(打吹山方向)を見通した状況です。
当時はもっと広かったと感じたんですが、やはり私が大きくなってしまったんでしょうね!?随分とこじんまりしちゃったように感じました。
中央奥にある国旗掲揚台ですが、確か中央の階段の両脇に滑り台があったような記憶が…画像をみると階段だけになってるような気がするんですけどね。
撮影した時にはさほど気にも留めてなかったんですが、帰宅後よくみたら「あれ?」ってなもんで。
まあ、あれからもう40年以上もの年月が経ってますからねぇ~…ただ掲揚ポールはそのままそびえ建っているので妙に安心したところもありました「あぁ…変わってないなぁ~」っと。
この国旗掲揚台の後ろ&左右に森の緑がひろがっておりますが、実はこの掲揚台のすぐ後ろは「打吹公園」と言う市営の公園なのです。
私が在学中は学校の敷地と公園との境の樹木は殆どありませんでしたから、学校に公園があるのか?公園内に学校があるのか?よくわからない状態(笑)だったのですが、今はかなり樹木も生い茂り、鬱蒼とした樹木が凄いですね!
まあ、見てくれよりはそこまで激しい植生でもないので、今でも十分公園側と学校の敷地との行き来はたやすく出来ちゃうんですけどね。(そもそも、そっちにすら柵も塀もない)
なので、たまに休憩時間には校庭だけでなく公園にも行って遊んでた事もあります。
(本当はあまりよろしくないって言われてたんですけどね)
校庭体育館側2-860西校舎方向
こちらは、同じ場所から更に西側に寄った画像です。
当ブログで頻繁に出演している「西校舎」が映っております。ちなみにこの西校舎は通算四代目となります(詳しくは「」をご覧ください)
この現在の西校舎、実は私達が在学中に存在していた三代目西校舎(木造)の位置よりも校舎1個分西側に寄って建てられております。
成徳小学校の西隣には倉吉簡易裁判所が昔からあるのですが(私の在学中もです)、三代目西校舎の老朽化に伴う立て替えの前に、裁判所庁舎も老朽化による建て替えが重なったらしく、新しい裁判所庁舎はコンパクトにすると言う事と、成徳小学校の敷地が手狭と言うちょうど両者の利害が一致して、裁判所の土地を校舎1個分割譲してくれると言う事に決まったそうで、それで今現在建っている四代目西校舎を建設する際に三代目西校舎の位置よりも校舎1個分西寄りに建設されたと言う次第です。
なので、私の時代と全く同じ位置にあると言う訳ではありませんし、木造校舎だったのが、鉄筋…しかも2階建てが3階建てと言う位置も・建物の規模も材質からして全て違うんですが、全体の校舎群の配置が似たような配置なので、パッと見た目はそんなに思ったほど違和感がないんですよねぇ~。
上記画像で破線で示してある場所には、当時ゴミ焼却炉があって、美化の時間に出たごみを燃やしに行きました。
このごみ焼却炉も当番制で、当番に当たってた生徒が持ってきたゴミをジャンジャン炉にぶち込んで燃やしてましたね!時折先生も監督してましたが(火を取り扱う関係上?)、ほぼほぼ生徒だけの時が多かったように思います。
今の時代だとまず考えれれないですよね?子供たちだけしかいないのに、思いっきり火を燃やしている焼却炉の作業・管理をさせてるんですから!
今ならさしずめ「怪我・火傷でも負ったらどうするんだ!!」「誰が責任を取るんだ!」などと、擦り付け合いが始まる事でしょうねぇ~(笑)
が!当時の私達は、全くそんな事露ほどにも感じず、多少火傷チックな事になっても全然平気でしたけどね。
「あ~ぁ、保健室で赤チン塗ってくるわ!」ってなもんですよ(爆)

そう、天下無敵の万能薬「赤チン」を!!

もう切り傷だろうが擦り傷だろうが、果ては腹が痛いだの、足が痛いだの言っても「赤チン塗っとけ!」なんて普通に言ってましたからね(笑)
そんな赤チンもいつの間にか保健室から消えてしまって…風の噂ではなんでも「水銀」が入ってるだの云々…知らんがな!あんな便利な薬は是非復活させてもらいたいものです。

閑話休題

目を転じて同じ位置から今度は北側…平成白亜校舎側を見てみます。
足洗い場東側1-2
足洗い場ですね、東側の。
ちょうどここは校舎から出て校庭へ出る境目になるところなんです。
だから「足洗い場」がありました。
当時は、健康に良いからとか、足を鍛える為…などと称して「裸足」で体育をよくやらされた記憶があります。
当然、整備された校庭とは言え「土」ですからね!足の裏はしっかり汚れるわけです。
だから校舎へ上がる前にここでしっかり足を洗いなさいってコトなんですねぇ~。

ただ、これは今回ホント何十年ぶりに確認して分かったんですが、私の時代の足洗い場と違ってるんですよ。
画像にも示してありますが、私の時代の足洗い場はちょうどこの画面に映る構成と真逆なんです。
画像向かって中央の水道を境に右側が洗い場、左が通路だったんですが、今はその逆になってます。
参考の為に旧状はこんな感じで
旧東足洗い場1-860
2015年、旧・新校舎が取り壊される直前頃に撮影された画像です。
先の説明の通り、右側が洗い場、左側が通路となっておりますが…平成白亜校舎新築の際に新たに新造されたようですね?
しかし…ここまで新造する意図は一体なんだったんだろう?
ただの足洗い場なのに…しかも立て替えの校舎とはそれなりに離隔してますから、工事の影響を受けるとも思えないし…。
ただ…思い当たるのは、当時からこの足洗い場にあった水道場の蛇口…結構サビサビで、蛇口がサビで茶色になってましたからね!おまけに飲んでみるともう…まさに「鉄」の味満点!!(笑)
もう当時から下手なサプリメントで鉄分採るよりも、日常的に鉄分を採っているような状況だったかもしれません。(だから貧血になる事がなかったのか?・笑)
そんな事を思い出してました。

そしてここから少しだけ平成白亜校舎側に寄って・・・
校舎前テラス体育館側1-860
校舎とプールの間の通路…私達はテラスって呼んでましたけど、この雰囲気は同じですね。
ただ、校庭の時も思ったんですが、当時はこのテラスの幅も…もっとだだっ広いテラスって感じてたのに…いまは本当に通路くらいにしか見えないって感じです。
教室からプールの柵までの距離がとてつもなく広い・遠いってあの頃はそう思ってたのに・・・
ただ、このテラスを構成しているコンクリートは当時のモノとは違うんでしょうね?
校舎建築時に恐らくこの周りのコンクリートは軒並み剥がされてしまってるでしょうから、私達の時代に打ってあったコンクリートとは別物で仕上げてあるんだと思います。
そう思うと、また一つ私達の生きた証を知る文物が…と言う想いが木枯らしのように吹き流されて行く感じがする今日この頃でありました。

さて今度は表通りに戻ってぐるっと回って西側に行きました。
成徳名物の「地下道」…。(こちらも詳しくは「」を参照ください)
先ほど、旧白亜校舎の画像にも写り込んでましたが、当時からずっと存在していたものです。
当然、私の学んだ旧・新校舎時代にも存在しておりましたが、今の平成白亜校舎にもそのまま残っております。
地下道1
地下道2
私の在学中と眺めはほぼ一緒です。
ただ、私の頃は画面向かって左側の壁には地下通路があって旧・新校舎の地階に通じてたんです、そしてその地階が下足場だったんです。
だから、通学の時ここから入って地下通路に入り、下足場で上履きに履き替えて階段を上がって1階に…と言った流れで登校してました。もちろん下校時はその逆順です。
私の時代とは若干構成が違ってしまってますが、しかし!地下道には変わりはありません。
私も、そして私の父も叔父も叔母も姉も…皆、この地下道を通ってかよっていった、まさに「伝統」の地下道なのであります!!

その伝統の地下道を入ってスロープを上ると・・・
足洗い場西側1-860
う~む…これまた懐かしい光景です。
ちょうど地下道入り口からみたスロープを上がり切った位置になります。
上記画像はその位置から体育館側(東側)を見た光景になりますが、手前の本プール(成徳では25mプールの事を本プールと言ってました)の手前に旧西足洗い場跡と表記してますが、当時は先ほどの東足洗い場の対としてこちら側(西側)にも足洗い場がありました。
ちょうどここが西側から校庭へ出る境目の場所に当たっていたからです。
しかし、先日確認してみたら…もう足洗い場自体が存在しておりませんでした!
ただ…画像左端にちょこっとだけ写っている「水道」が見えるんですが、これだけが恐らくかつてここに「足洗い場」があった唯一の痕跡なのでは?…と思う次第です。
画像右側奥に点線で表記しておりますが、かつてここには「図書館」が存在しておりました。
そもそもその「図書館」も元を正せば「」と言う学校創立80周年を記念して建てられた建物だったらしく、旧白亜校舎時代には表通りの正門をくぐるとすぐ左側に建っていた建物でした。
旧白亜校舎取り壊しに伴い、解体・移築され上記画像表示位置に再建立されたのですが…こちらは私が全く知らない内に取り壊されていたようです。

そして、少し平成白亜校舎側へ寄ってみた画像です
足洗い場西側2-860

こんな間近で平成白亜校舎を見たのは初めてですね!…って言うか、この位置に立つのもホント何十年ぶり?って感じなんですけどね(爆)
この画像でみると、校舎群を構成する各建物は殆どが様変わりしているはずなんですが、建っている場所自体がほぼ同じ位置、似たような規模であるため、まるで別物…と言うほどの違和感を感じないんですよねぇ~…。
アラ探し的な目で、鵜の目鷹の目状態で見くらべれば、そりゃ湧いて出てくるほどあれこれありますが、パッと見た感じではほとんど同じ立地構成なので、そんなに感じないんですよねぇ~…なんというか…雰囲気?みたいなものが。
だから、このまったく中に入った事も無い「平成白亜校舎」自体も、全く知らないのに何となく普通に受け入れている自分がいます。
やはり同じ位置、規模(厳密には3階建てが2階建ての減築ですが)なので、大きく違和感を感じません。
慣れてしまったら…もう何十年も前からそこにある?と見紛うばかり…な感じかも(笑)

そして今回最後にこちらを・・・
地下道1-860
上がってきたスロープを逆に見下ろした画像です。
この眺めはほぼ変わりませんね!
両脇に切り立つ丸石の石垣…全く当時のままです。
よくこの丸石垣によじ登って一番高いところ付近まで登ったりして遊んでたんですが、当時そこまで登るとかなり恐怖感を感じましたね!それだけ高いんです。
ところが!今回此処を見上げてみても…ちょっとジャンプすればすぐに一番高い石垣近くまで届いてしまったり…と、当時あれだけ絶壁感を感じていた丸石垣なのに・・・と、ここでも自身の成長ぶり(って言うか老化だろ!・笑)に経ち過ぎた月日を感じる私でありました。

スロープ中腹辺りの地面に、ハニカム模様(ハチの巣模様)のすべり止めの細工がしてあるんですが、これもまた懐かしい光景でした。
この部分は当時のまま残ってたんですねぇ~。中腹より下は恐らく近年の改修なんでしょうね?、普通の車道などの坂道に施してある丸い凹凸細工がしてありました。

学校施設の殆どが、在学中のモノとは様変わりしている今日の我が母校「成徳小学校」
学んだ校舎も(旧・新校舎、西校舎ともに)既に代変わり又は破却され、当時を彷彿させるものが年々減ってきている現状…やがて今はまだ残存している体育館や本プールなど、残された僅かな追憶のアイテムも消滅する日がやってくるのかもしれません。
まあ、その日まで私自身が生きていれば…の話ですけどね!(笑)
しかし、願わくば旧鳥取藩倉吉代官 荒尾氏陣屋跡の石垣の上にそびえ立ち、明治・大正・昭和・平成、そして令和の時代まで続く、数多の生徒の笑顔と歓声を通わせた「正門」と「地下道」が存続する限り、きっと我が母校の未来は続くのだ!…いや、そうに違いない!!…と切に願う今日この頃。

そうそう、久々だったのでついうっかり忘れるとこだった!
成徳校歌-1000

成徳ネタの時はこれを掲載しなければ!!

※欠番になった我が校歌1番の詳細については「」こちらをご覧ください

もし卒業生で見ている人が居たら、どうか共に祈ってください。
誠の心ひとすじに、己が勇気を揺り起こし…欠番になった本当の校歌1番に謳われているように、決して「」にも負ける事なく、我が母校「成徳」がずっとずっと栄える事を!

正義は我にあり。

…とつい興奮してしまいましたね。
ただ…今年は少し楽観してるんです!
だって、今年の私は「大吉」ですからね(爆)

2019年3月3日 ヤフーブログより引っ越し





フッフッフ…創立120周年?

甘いな(笑)京都橘高等学校。

平成31年(2019年)2月20日…

我が母校「倉吉市立成徳小学校」はめでたく創立146年を迎えました。
なんと!146歳…いやいや、私が在校中…多分低学年くらいだったと思うのですが「本校は100歳を迎えました」と先生が言っていたのを覚えてます。

あれから既に46年…もう50年…半世紀近くの時が経とうとしているとは…まさに光陰矢の如しって言うやつです。

どうも、「本物」の成徳小学校第100回卒業生で(もどき)でも「偽善者」でもありません、ついでに言うと成徳小学校的には「負け犬」でもありません(笑)

本日は恐らく次回作「白と黒」シリーズ続編を期待した方が多数おられると思うのですが…すみません。

京都橘なんぞよりももっと重要な事、しかも「慶事」なのでこちらが最優先なのです!

「なに!?京都橘ファンでブログまで起ち上げて煽ってるくせに…橘よりも優先にすることがあるのか!?」

と憤慨される方も…絶対5人くらいはいそうな気配ですが、ハッキリ言いましょう。

「はい、そうです!」
「京都橘よりも優先することなのです!」(キッパリ)

「なに!?ファンは待ってるんだぞ、期待を裏切るのか?」

と言う声も聞こえそうな雰囲気ですが、裏切ってるつもりはありませんが、待たれても…何をいつどう書いて、どう発表しようが…それは私の勝手です!(笑)

そして、最近何気に感じるんですが、どうもこのブログを「京都橘の情報サイト」だと思いっきり勘違いしている方も多々おられるような気がします。
まあ、これだけ「京都橘」の記事を投稿してますから、他のファン…とくに「にわか」の初心者?のような方々にとってはそれなりに有効な情報源と言う側面もあるかもしれないと言う認識と、とりあえずここに来れば何かわかるだろ?…的な。

しかし…繰り返し言いますが、この私自身も「にわか」で初心者なファンの1人であることに変わりはないのですよ?
「またまた御冗談を」みたいな事を思う方もおられるかもしれませんが、先回の記事「あの空へ - 「白と黒」 外伝 前編 -」の冒頭文でもお話した通りで、昨年の今頃まで私「Sing Sing Sing」と言うタイトルを知らなかったんですよ?
もちろん「曲」は知ってましたが、ではタイトルは?となるとさっぱり。
当然「京都橘高等学校吹奏楽部」…オレンジの悪魔なんて全く露ほども…って言う状態から今に至る…と言った次第です。
ですから、これまでの記事などに起こした内容などの情報については、あちらこちらの京都橘ファンサイトなりブログなりその他の情報を収集して見聞したもの、自分で調べたもの等々で検証・精査しつつここまで来た…と言うのが実情です。
ですから、私などよりももっと深く・広く・詳細な情報を隠し持っている、いわゆる「本物」?「正統派」?と呼ばれるファンともマニアとも言われる方々が運営するサイトなり、掲示板なりがありますが、情報収集をされるならばそちらの方が適していると思いますよ?
ただ多くの「本物」の方はお優しい方々だと思うのですが、中には一部…よく言われる…どこの世界にもいる例のアレですよ!
「古くからのファンだから俺は偉い」「色々他の連中は知らない情報を知ってるから、俺は偉い」といわゆる「かさにきて」はなっから初心者をバカにする連中もたまに出没しますから、その点はご注意を!(特にYoutubeのコメント欄にはよく出没しますね)

いつだったか、ある動画の件で炎上してた映像があったのですが、否定派・肯定派…それぞれ譲らない。
そこへ!…現れました「古参ファン」
「ふっふっふ、長いファン歴を持つこの俺様が出てきたからには、俺の一言の前には皆ひざまずくだろう」…みたいなモノの言い方で登場しました。
案の定長ったらしい・もっともらしいご高説をぶってましたが…他の新参と思われるコメント主から一言「引っ込め古参」!!(爆)

いやいや、もうまったく「痛快」な事この上なかったですね!!

と、少し横道にずれましたが、当方が挙げている情報なり画像などすべて昨年「にわか」でファンになってから地道に活動して成した成果です。
こんな私でも出来たのです、他の新参・「にわか」と言われている多くの方々も熱意があればできますよ。
と言う事で、最近妙に「質問」が多くなってるなぁ~?とふと感じたので、顧みてみました。
中には「それって俺に何を求めとるん?」ってかなり疑問を感じるようないきなりの質問などもあり、かなり困惑するんですよね?
Q&A掲示板じゃないつーの!
そうそう、ついでに一言・・・昨年起ち上げて先日なんと1周年を迎えた我がブログでありますが、当方の想像とはまるでかけ離れた今の現状となっております。
予想もしてなかった多数の訪問者、コメントなどありがたい事この上ない話ではありますが、多少なりとも注目を集めている昨今、やはりそうなると玉石混交…色んな方がお越しになられます。
既に何度も宣言しておりますが、当ブログでは自主規制その他、妙なルールは今のところこれと言って設けておりません。
基本「自由」がキーワードです…が!「何でもアリ!」とは違いますからね。

初めて会話(コメント)するのに「こんにちは(こんばんわ・お邪魔します等)」の一言もない、いきなり長い付き合いの友達のような言葉遣い…別に偉そうにしている訳ではありません、もちろん訪問者が増えたからって「天狗」になっている事もありません。
そんな事はハッキリいってわざわざ人に言われなくても普通するでしょ?…って言う事を求めているだけの話です。
特に当ブログの主な訪問者は概ね6割~7割を50~60代以上が占めます。
つまりオッサン&老人の集団です!、そして大体コメントをしてこられるのはその方たちが殆どです。
あのねぇ~…もう人生の辛酸を嘗め切って、豊富な経験を経た立派な「大人」でしょ?皆さん。
社会的な地位にも昇りつめた人も多々おられるでしょうし、会社ではパワハラ三昧な人もいるかもしれません!(笑)
が、そんな皆さん、もういい「大人」なんですよ。
なのに、人のブログにコメントなりで入ってくるのはいいのですが、挨拶もなし。
初対面(対面はしてないですが・笑)でいきなり「ダチ」?と会話してるようなモノの言いよう…ちょっと考えればどれだけ失礼かって気づきませんか?。

これってブログの「ルール」とかっていう以前の問題ですよ?
もちろん、何度も通われて馴染んできた方などは、回数に応じて徐々に胸襟を開いて会話も弾むでしょう。まるで昔からの知り合いのような話方にもなるでしょう。

が!初めてコメントしてきていきなり挨拶もなし…。
酷いのはそんな感じで、更にただの「質問」オンリー。

「お前…誰やねん!?」(何故か大阪弁)

って感じです。(実は承認してないコメントも意外とあるんです、こんなのが多数で)
私、コメントには可能な限りコメントで返します。
が、たまに承認して掲載はされてもコメント返してもらえない方がいるかもしれません。それは何かが私の中で引っかかってると言う事です。
まあ、ほとんど誰でも、どの世界・職場でもごく普通に当たり前のようにやってる「礼儀」ってだけの話なんですけどね。

さて、そんな話はどうでもいいとして…

閑話休題

我が母校「倉吉市立成徳小学校」は、江戸時代に鳥取藩を治めていた「池田家」の家老職にあった「荒尾氏」が鳥取県中部の「倉吉」の代官?として倉吉市街地南側にそびえる「打吹山」の麓に「陣屋」を構え、江戸時代を通じて倉吉を治めていたのですが、明治維新による改変の後、明治5年の学制発布による学校建設推進により、明治6年(1873年)2月20日、元倉吉陣屋の敷地及び施設を一部利用して「開蒙学校」と言う名称で創立したのが起源です。

創立当初から旧・陣屋の施設を利用していたものの、生徒数の増加その他で手狭になり陣屋の施設では賄いきれない状況になり、また本来があくまでも「陣屋」の施設であるため「教育」に必ずしも適した環境ではないと言う事で、当時地元の有志が

「子供たちの為により良い教育環境を!」

と言う願いの下、東奔西走して資金を募り、明治14年新規に「校舎」が創建されたのであります。
イメージ 1
こちらが、その明治14年に創建された校舎です。
旧・陣屋跡地に建設され、爾来我が母校の所在地は平成31年の今現在に至るまでこの地に留まり続けております。

その後、更なる生徒数の増大に伴い本格的な施設建設の動きが起こり、明治20年「成徳」を象徴する「白亜校舎」が落成されたのです。
イメージ 2
明治期特有の和洋折衷の佇まい、壮麗な白いその姿は当時から「白亜の殿堂」と呼ばれ、爾来明治・大正・昭和の70余年の長きに亘り、激動の時代を生徒と共にあゆみ続け、地域の指標校として長らくその優美かつ荘厳な外観とともに内外に名声を轟かせておりましたが、昭和34年の伊勢湾台風による風雨の被害、建物自体の老朽化等の理由により取り壊し・解体が決定、多くの卒業生・地元の人々に惜しまれつつもついに昭和39年この地上から永遠にその姿を消滅させたのであります。
イメージ 3
私は昭和39年生まれ、つまり白亜校舎の事は写真でしか知りません。
その写真でみてもかなりの壮麗なその校舎は本当に美しい。
(上部掲載画像は久々の「なんちゃって着色」です・笑)


今、我が故郷鳥取県倉吉市は「白壁土蔵群」と言う江戸時代以来の土蔵の街並みなどを観光資源として街並み全体を江戸時代そのままに…と言う「ウリ」で地域経済の活性化を画策しています。
イメージ 9
その目論見はそれなりに成果を発揮して、ここ十年以上も前から帰省してその界隈を歩いていても、私がガキの頃には見た事もないような景色が!

明らかに「観光客」とわかる多くの人達が町中を闊歩している訳です。

昔の倉吉を知っている私などからすると、「ここに一体何か見るものなんてあるのか?」と不思議な気持ちになるのですが、観光客からするとその江戸時代から続く「土蔵」の景色・風情がたまらないらしいのです。

私からすると「いつもの光景」以外の何ものでもないんですけどね。

しかし、そんな今…こうして歴史的建造物を活用して地域の観光資源として地域創世を図っているのですが、もうちょっと前にそんな時代を読む目を持っていたならば…この我が母校「成徳小学校」いや地域のシンボル「白亜校舎」をそのまま温存しておけば…さぞや立派な観光資源になっていただろうに…と思う訳です。

さて、昭和39年「白亜校舎」が取り壊された後、ここに当時としてはモダンで近代的・前衛的な「旧・新校舎」が建設されました。
イメージ 4
設計者は当時日本を代表する建築家の「丹下健三氏」
そのデザインは直線を基調とした柱と梁を主軸にしたあまり「壁」のない大きな窓を持つと言う、隣接した「倉吉市役所本庁舎」と同趣旨の建築技法で建築されました。

当時としてはかなり「モダン」なデザインでもあり、全国的にも小学校の校舎に採用されたなんてかなり珍しい事だったのではないでしょうか?
なんてったって昭和30年代に設計された建物、しかも山陰の片田舎鳥取県の中部に所在するド田舎の小学校の校舎なのに当時既に「ダストシュート」を完備した校舎でしたからね!。

ちなみに、私が小学校の全期間過ごしたのがこの校舎です
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旧・白亜校舎が取り壊されて7年後に入学した私です、当時はこの校舎を「新校舎」と呼んでおりました。

当ブログではこの校舎の事を「旧・新校舎」と呼称しておりますが、平成29年(2017年)この当時我々が「新校舎」と呼んでいた校舎も老朽化その他で取り壊しが決定し、新たに平成の「白亜校舎」とでも言うべき今現在の「新校舎」が完成したため、私達が当時「新校舎」と呼んでいた校舎も「旧・新校舎」と言う呼び方を便宜上しております。

そして、平成31年の今。
かつて遠い昔にこの地上から永遠に消滅してしまった「白亜校舎」が現代に蘇ったかのような全く新しい「平成の白亜校舎」が今現在の我が母校「成徳小学校」の新校舎であります。
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その外観は往年の「白亜の殿堂」を模した鉄筋2階建ての平成「白亜校舎」。
中央玄関部分の建て方は2階のバルコニー部分の意匠なども併せて、かなりリアルに再現されております。
そして併せて「正門」の位置も旧に復して設置されました。
恐らく本来の「白亜校舎」時代とほぼ同様の位置かとおもわれます。
そしてそこにそびえる門柱は…伝統の本物!!明治40年に建立されてから幾年月…生徒と共にあゆんだ110年あまり、「旧・新校舎」時代は体育館脇に追いやられ、私達の時代にはそこが「正門」であるにも関わらず、通用口(地下道)に下足場があった為殆どの生徒はそちら側での登下校が大部分を占めていたので、中には在校中に「正門」の存在を一切知らぬまま卒業するような児童もいたのでは?と思うような状況でした。私自身も4年生くらいの頃に先生からたまたま「正門」の話を聞いて認識した次第ですからね!
(って言うか普通教えろよ!?って感じですが・笑)

何はともあれ、半世紀ぶりにようやく本来の姿・位置への復帰です。
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ただ、正門自体はほぼ旧に復した位置に戻り、校舎自体も旧白亜校舎を模した外観になり風情は満点なのですが、せっかく正門の位置が元に戻ったのに校舎自体が大きく西よりにオフセットされた状態で建設されてしまい、なんとも不格好な状態での復元となってしまいました。

どうせ元の雰囲気に復元するならいっそのこと体育館も取り壊して更地にして、門柱と校舎が一直線で連なる本来の「白亜校舎」の状態での建立の方が見た目も、醸し出す雰囲気も全然重みが違って来たのに…と思うのは私だけではないはずです。
まあ、予算・工期その他致し方ない事情があったのでしょうが、校舎自体の出来栄えがかなりGOODなだけにその点だけが残念で仕方がありません。

まあ、そのような現況の我が母校成徳小学校ですが…もしも、昭和39年に「白亜校舎」が取り壊されず「奇跡的」に平成の今も残っていたならば?
恐らく日本でも最古になるくらいの「明治期」…しかも明治維新直後に創建された木造小学校として全国的にも有名になっていただろうし、観光客も「白壁土蔵群」と言う江戸時代風の景色を堪能した後に、今度は洋風の壮麗な小学校、それも現役で使われている校舎…となれば観光の目玉ともなったであろうことは想像に難くないですね。

が、もし仮に残されていたとしても「老朽化」と言う問題は残されます。
明治期それもかなり早い段階で建築されていて、しかも同じ木造建築物と言っても寺院等とは違い、学校と言うモノは恐ろしく公共性の高い建築物しかも毎日何百と言う人が行き来、存在する施設(子供が主体とは言え)、その耐久性などは当時の建築技術では今の基準と比較すると相当甘かったのでは?と想像します。
今になって慌てて旧白亜校舎風の新校舎を建築しましたが、その立ち位置その他…本来の姿とはやはり大きく異なっているのも現実で、何となく「微妙」…と言うのが本音、「やはりあの時本物を残しておけば…」と後の祭りとはまさにこの事…。

そしてこの日本に老朽化と外観の復元と言う2つの問題を完璧に解決した例があります。

それは「旧・海軍兵学校 生徒館」

あの有名な我が帝国海軍の士官達を数多く養成した海軍兵学校。
広島県に所在する瀬戸内海に浮かぶ「江田島」
そこにわが国の海の守りを担う次世代の士官を要請するために海軍が兵学校(士官学校)を設置したのです。
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随分前に既出の画像ですが、今一度この上下2枚の画像を見比べてください。
何か違いがわかりますか?
上は昭和の終わりから平成の初期頃の撮影、下は最近(数年前)の撮影です。

お気づきの方も多いと思いますが、そうなんです。
この左側の白い建物、元は「海軍兵学校1号生徒館(西生徒館)」と言う名称の建物だったのですが、今現在ももちろん海上自衛隊の学校施設として使われており、そこで就学する学生(自衛官)の居住場所として使用されていることに変わりはありません。
が、その外観です!!
ぱっと遠目から見た外観はちょっと外壁の色が新しく塗り直されたのか?と思う程度かもしれませんが、実はこの建物…上下の画像で全くの「別物」なのです。
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とよく詳細を見ればわかる通り、違う建物なのです。
見た目・外観の雰囲気は恐ろしいほどに似てますよね?
でもこれ…実はわざとそうしたとのことです。

この帝国海軍が「海軍兵学校1号生徒館(西生徒館)」と呼んでいた建物、兵学校建立以来多くの生徒がここで学び、やがて巣立ってゆき、その多くがまた戦地に赴いていったわけです、そしてその学生達が日々起居していたのが正にこの建物だったのです。
やがて敗戦…海軍自体が消滅して数年…再び「海上自衛隊」として我が海軍は蘇り、再びこの地は多くの優秀な海の男を養成する地として復活し、今もってその使命を果たし続けているわけです。

兵学校出身者はともかく優秀で、戦後は海上自衛隊が復活して再び軍人(自衛官)に復す者もあれば、一般社会でその優秀な頭脳をもって国家国民の為に活躍した方も大勢おられます。
そんな先達も皆、やはり己が青春を過ごしたこの兵学校には殊の外愛着をもっておられたそうで、この「海軍兵学校1号生徒館(西生徒館)」が建て替えとなった時に相当各方面に働きかけて何とか旧のデザインでの建設を目指して東奔西走されたそうです。
もちろん関連部署の現役の自衛官の方々も、相当の苦労をされたそうです。
自衛隊…特に「海上自衛隊」は特に「伝統墨守」の色合いが強く、この建物のみならず画像にもあるお隣の有名な「赤レンガ」の建物…これも尋常ではない努力を傾注して耐震化工事の予算獲得・施工・完成にこぎつけた…と聞き及んでおります。
この海軍兵学校と言えばどちらかと言えばこちらの「赤レンガ」の建物を連想しますが、この建物明治26年に建てられたそうです。
以来、平成の今現在に至るまでずっとこの江田島のこの場所に存在しております。
そしてこの隣の生徒館が建て替えになるのと同じ時期にこちらは耐震化工事が施されました。
おどろくなかれ、「建て替え」ではなく、補強・整備なのです!
と言う事は、創建当時のままの状態で平成の今現在の耐震化基準を満たす為にあらゆる施策が講じられました。
さらに、海上自衛隊はこの建物(赤レンガ)を以後100年先まで使用可能な状態に補強・整備すると言う方針のもとにその予算を計上し、実際財務省と大喧嘩(大袈裟な表現ですが)して予算を分捕ってきたそうです(笑)
そして、上下に分かれた上記画像ですが、下段の画像は既にその耐震化工事が施されてる状態です。
外観・見た目…全然変わらないでしょ?わかりませんよね?
そうなんです、よく古い学校とか病院・役場などに後付けで施されている耐震補強のようなぶっといバッテン型の鉄骨による補強…あのブサイクな見た目などどこにもありません。
ここなんです!彼ら(海上自衛隊)がこだわったのは。
この優美な風情ある「赤レンガ」の建物を補強と言う名目でバッテン型の鉄骨の補強材だらけの無様な姿にしてまで残したくない、残すなら見た目は一切何も変化せず、明治の創建の頃の姿のままで…と言う「伝統の姿」にこだわったそうです。
そしてその結果がこれです!…もう「見事」なものですよね。見た目全くわかりません。
そして、驚くことに海上自衛隊は「本気」で100年先まで使う気でいるそうで、もちろん工事自体もそれに耐えうる施工をしてあるそうです。
この「本気度」「こだわり度」が凄いですよね。

そして、先にお伝えした「海軍兵学校1号生徒館(西生徒館)」
ただ、こちらの方は当時の建築基準と今の基準に厳しい差があり、また居住区としての利用となる為、居住性・採光性など人が常時宿泊する施設であるため、旧のデザインのままでは基準を満たせないと言う結果となり、やむなくこのような建物になったそうです。
が!見てお分かりの通り、それでも旧の建物とどう違うんだ?とぱっと見では殆ど気付かないですよね?
現代の基準に合わせた場合、どうしても不都合が出て同じにならない部分だけは仕方なくそれに合わせ、その他の部分は外観のデザインをほぼ旧を踏襲すると言う大方針の下、計画がすすめられたそうです。

が!簡単に言っちゃってますが、これが…とんでもなくややこしい事に。
先ほども申し上げた通りで、自衛隊…国家機関ですよね?つまりその活動に掛かる費用はすべて国家予算。
つまり建物1個建てるだけでも財務省との折衝があるわけです。

なるべく金を出したくない財務省vsどうしても元のデザインで建てたい海上自衛隊。

数限りない繰り返しの話し合い…
財務省「わかりました、建物の建設予算を出しましょう、でも普通の四角い建物分の予算ですよ」

海自「いや、〇〇〇なデザインで建てたいので、それにはその金額じゃ無理なんです」

財務省「いやいや、〇〇〇なデザインで建てる意味が解りません、そのデザインにする意味は、効果は?普通の建て方でいいじゃないですか?その方が安くあがるし…」

海自「いや待って下さい、ここが〇〇〇なデザインと言う理由は…と言う訳で、どうしてもここは〇〇〇じゃなきゃダメなんです!」

と言う問答が延々と続いたそうです。(あくまでも一例ですが)
厳しく鋭く追及してくる財務省の攻勢に、一つ一つ丁寧に説明し、粘り強く交渉をした結果、ようやく認可を受け予算を獲得出来た…と言う裏事情があったそうです。

このように、明治の頃から存在する古い建物をその見た目はそのままに内部を徹底的に補強して更に100年先まで使う事を前提とした補強・整備は可能だったのです!
また、建て替えるにしても「海軍兵学校1号生徒館(西生徒館)」の例のように、現代の基準に合わせざるを得ない部分は合わせ、その他の部分は徹頭徹尾旧を復元する!もちろん外観・見た目はもとより、その建立位置まで…可能だったのです。

それ故に、海軍兵学校…今の海上自衛隊第一術科学校は今も昔もその優美な外観・風景も一切変わることなく、現役の「軍」の施設でありながら今もって「観光名所」としての側面も持ち合わせていると言うのが現状です。

これは当時の工事に関係した自衛隊側の関係者の血の滲むような努力と、兵学校出身者のOB達が心血を注いて支援し成し得た結果なのだと思います。

今一度翻って我が母校「成徳小学校」は…
白亜校舎は老朽化と言う理由で、あっけなく取り壊し、時代が古き良きモノを観光資源として活用すると言う風潮が強くなってきてから慌てて白亜校舎の価値に気付いた…という無様な様相。
たまたま「旧・新校舎」の耐用年数等に問題があって取り壊しになるのを良い事に掌を返したように再び「白亜校舎」風の鉄筋校舎を建築…。
まあここまでは良しとしましょう!

が!、せっかく予算まで使って白亜校舎風校舎を建築したのに…正門も元の位置に戻したのに…どうしてオフセット配置なわけ?
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ん~なぜだ!?誰が見てもなんともマヌケな配置だ!惜しい…実に…惜しい!!

まあとは言いつつも、こうして市の予算を使って折角復元してもらったわけで、何から何まで求めていたらキリがありませんからね。
白亜校舎が帰ってきたと言うだけでも「よし」とせねば。

と、そんな諸々のモノを内包しつつめでたい146歳。
生徒数の激減で存亡の危機に晒され続ける運命にあろうと思われる昨今ではありますが、きっと「誠の心ひとすじに、己が勇気を振り起し」て未来を切り開いていった先達の魂がいつまでもいつまでも我が校「成徳」を守ってくださるに違いないと信じてやみません。
もう少しで150年、160年、170年とずっとずっと続いて欲しいと願うこの頃。
さて、私は1〇〇周年までこの目で見る事が出来るやら?
まさに「神のみぞ知る」と言うところであります。

いざ栄えよ我が母校・・・どこまでもどこまでも…とこしえに。


2019年3月3日 ヤフーブログより引っ越し


2018/12/5(水) 午前 0:18


どもあっという間に12月…師走ですね!
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いやはや久々の我が校歌…いつ見ても感じ入る歌詞だ。

150年近くの伝統をもつ我が母校の栄誉ある校歌1番です。終戦後進駐軍におもねってこの正式な校歌「1番」は永遠に欠番扱いになり、以後今現在に至るまで復権しておりません。
当然昭和40年代中盤から50年代初頭にかけて成徳で学んだ私自身も、この校歌1番を歌った経験はありません。
私たち戦後卒業生のほとんどが1番として歌っている成徳校歌は、実は元々「2番」として歌われていたものなのです。
本当の1番の歌詞に「あやにかしこき 大君の…」云々と言うくだりが、やれ「軍国主義」だの「天皇崇拝」だの…と占領軍におもねった思考と、祖国が敗戦になったお陰でからくも復活した共産主義者どもの目に付き、戦後欠番になったわけです。
しかし、私の父も成徳卒業生です。当然父はこの「本当の1番」で習った世代です。
占領軍(ほぼアメリカ)の姑息な未来戦略により、世代間の分断計画にまんまと乗せられて、現代日本はどれだけ縦の関係が希薄になっていることか…。
たかが校歌如きの話ですが、されど校歌なのです。
同じ母校の校歌(2番以降は全く歌詞の変更もありませんし、メロディも同じ)でも真の校歌を隠蔽され続けている状況、父と同じ歌を歌えないこの現実…なんとも空恐ろしいものを感じます。
こうして知らない間に、日本人の中にあるありとあらゆる良い部分、優秀なところなど…が、分断、停滞、先細り、消滅させられていってるような気がしてなりません。
全方位外交などと戦後、大東亜戦争の贖罪と称して世界のあらゆる国々と仲良く…などと理想・妄想を謳った結果が、今現在日本を取り巻く世界の…特にアジアでは中国・朝鮮などとの関係に現れています。
主権国家と称するならば、「敵は敵」「味方は味方」と毅然とした態度で臨まねば逆に1億2千万の国民に再び塗炭の苦しみを与える事態にもなりかねませんからね。

こんな話になったついでに言うと、私「戦争」はしないに越した事はない「派」です、しかし同時に「やられたらやり返せ派」でもあります。
なので戦争反対派では決してありません。
そして「人の命は、地球より重い」…なんてこれ以上はない綺麗ごとのセリフをこれっぽっちも思っていません。
もちろん「重い」とは思ってますよ?、が!地球よりなんて…絶対そんなわけねーだろ?って事です。
命どぅ宝?…とかって言う沖縄の方言?(格言?)があるそうです、日本で唯一地上戦が行われた沖縄の人が言うセリフには重みがあります。
死んで花実が咲くものか、生きていればこそその後も続く…確かにそうなのです。
何があっても生き残って命を保って繋げていけば、後の世の推移も経験でき、いろんな可能性、楽しみ…すべて享受できるわけです。
死んだら…はい!それま~で~よ!ってヤツですね。
でも、私はこの「命どぅ宝」…宝とは思いますが、絶対とは思っておりません。
「命より大事なもの」って…絶対に「ある」と私は信じているからです。

軍人(自衛官)、警官、消防官、保安官などなど…普段その任務上まさに「命」の危険に晒される職業の方々がいます。

もし、今目の前に危険に晒されている人がいて、それを何とか出来るのが自分しかいない状況の時、そしてもしかしたらその行為を行えば自分も死んでしまうかもしれない…と言う時、「命どぅ宝」でいいのでしょうか?

この職業の人達が、いざと言う時「いや、命どぅ宝なんで!」っと言って、目の前の救助を待つ人、助けを待つ人を無視してもいいものなのでしょうか?

そして、仮に最悪の結果になった時に「見殺しにした」とか言って批判・非難してくるのは大抵「命どぅ宝」と普段声高に言ってる連中に多くみられるような気がします。
軍人や警官の命は「宝」じゃないのか?

「何を言ってる、あいつら(とにかく上から目線)は最初からそう言う仕事だろ!」

と言いだす。

身勝手この上ない話ですわ!!

ってな事で、ついつい激高してしまいました。
(命どぅ宝が悪いと言っているわけではありません)

さて、本日は「成徳」ネタです。

今や恐らく…「海外」を含めこんな山陰の片田舎、いやクソ田舎に住んでるオッサンがやってるブログにこんなにも多くの方がお越しになる事態になるとは…予想だにしませんでした。

恐らく中にはこのブログを「京都橘高等学校吹奏楽部」ファンブログと勘違いされている方も大勢おられることと思います。

ハッキリ言いましょう!

「違います!!」(キッパリ)

このブログは

「倉吉市立成徳小学校」応援ブログなのであります。

もちろん「京都橘」のファンであり、応援もしておりますが、このブログの趣旨、目的…そして表題をご覧になればお分かりの通り…

「誠の心 - 一致団結!倉吉市立成徳小学校卒業生-」

とあるように、日本の山陰地方、鳥取県中部の「倉吉市」に所在する、我が母校「成徳小学校」を応援…と言うか、市役所の陰謀により「廃校」の危機に晒されている我が母校を何とか救わんと微力ながら発信している訳です。

先日、偶然にもなんと!京都橘ファンで「成徳」に縁のある方からコメントを頂きました。
卒業生と言うわけではなく、数年間在籍をしただけ…との事でしたが、いやいやまさか本当に京都橘のファンの中に母校に関係する人が実際居たことに感動しましたね。
姑息な話ですが、こうして今現在趣味が高じて本来の「成徳」ネタよりも「京都橘」ネタの方が頻繁に記事更新をしておりますが、それを目当てに多くの方が来られると思います、より多くの方の目に留まれば…上記のような方がまた少なからず訪れる可能性もあるかな?と思い、もしそんな方がおられたならばともに母校の為に何某かの想いを持って欲しいなぁ~と思う次第です。

さて、本題。
本日はまたまた「西校舎」のお話

我々50歳前後の成徳卒業生からすると「西校舎」と言うと通常
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いやいや、懐かしいですね。
我らの時代の「西校舎」、木造2階建ての本当にオンボロの校舎でしたが、それはそれで、それなりに「味」があって今となっては懐かしい思い出しかありません。
昭和58年に解体されたという事で、平成も30年…年明けになるととうとうその平成も最後となりますが、既に30年以上も前にこの地上から消滅してしまっております。

そして、この我らの時代の「西校舎」ですが、このブログでも散々ネタに上がっておりまして、かなり詳細な記述などもしておりますからご存知の方も多いと思いますが(とは言っても所詮地方の小学校の話なので、その関連でこのブログを訪れる人はかなり少ないとは思いますが)、元をただせば旧白亜校舎時代の「南校舎」なのです。

老朽化と昭和34年の「伊勢湾台風」の被害により明治20年に創建されたいわゆる「白亜校舎」、その後逐次増築・整備されたその壮麗な姿は地方の小学校の域を超え長らく地域のシンボル・ランドマークとして県内外に名を轟かせておりました。

昭和39年、多くの卒業生および地域の人々に惜しまれつつ取り壊しが決まり、明治以来営々と整備されてきた旧白亜校舎群は、当時の「南校舎」を除き全解体と言う事で地上から永久に消滅致しました。
その旧白亜校舎群の建物の中で唯一生き残ったのが、当時の「南校舎」…その後場所を移して今度は鉄筋3階建ての近代的な「新校舎」の脇に「西校舎」として装いも新たに蘇ったわけです。

私自身もこの「西校舎」で学んだ1人なので、一番なじみのある「西校舎」といえばこちらになります。

実はこの「西校舎」と言う名称…今現在確認できる範囲では平成30年現在、成徳小学校の「西校舎」と呼ばれる校舎は「4代目」になります。

私たちの時代の「西校舎」は「3代目」ですね。

では、初代、2代目…は?

それがこちらです
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いやいや、まさに「戦前」って言うより「明治」って感じの雰囲気満点です。
しかし、よくよく考えると昔の小学校とかは凄いですよね?
こんな大きな建築物なのに…全部「木」ですよ?これ。
もちろん、今現在はすべて「鉄筋造り」で4階だろうが10階だろうが簡単にしかも頑丈に建築出来るでしょう。
しかし、当時は鉄筋の建物なんてまだまだ一般的ではなかった時代。
おのずとこのような大きな建造物は「木造」が主流だったわけです。
しかも、学校ですから大人数が同時に同じ場所に存在または移動すると言う特殊な環境にあるわけで、いくら体重の軽い小学生とは言え、何十人…いやいや少子高齢化なんぞ露ほどもその言葉すら存在しなかった時代です、産めよ増やせよの時代、私たちのお爺ちゃん・お婆ちゃんの世代は兄弟が5人6人当たり前!!…の時代ですから、いくら山陰の片田舎と言っても「子供」の数は今の現代と比べたらまさに「桁違い」!!(笑)
私の父も戦前のこの成徳小学校を卒業したのですが、父の在学中の生徒数は1500人を超えてたそうです。
私の時代でも800人近く居ました…それから約50年近く…今や200人を切って150人居るか居ないか?…1学年1クラスが精一杯な状況らしいです。
減りも減ったものです。

既出「「道」の功罪・・・」と言う記事でも申しましたが、山陰と言う地域…特に鳥取県は島根へ行く以外は県外を出ようと思ったら平成の今の世でも必ず「峠」を超えないと出れません。
なので、昭和50年代くらいまでは道路事情などもあり、若い人がそこまで外に出ていく事が少なかったように思います。
もちろん、若い人がいるから商売なり仕事なりもそれなりにあって、街も活気がありました。
が、その後ドンドン開発され、道路も高規格のしっかり舗装されて立派なものが県のあちこちに整備され、県外へのアクセスが本当短縮されるような状況になるにつれ、どんどん若者が流出してしまい、残るのは年老いた親と老朽化した「空き家」だらけの地方・地域に成り果てております。
そりゃ~1500人が150人になっちゃいますよね?それが今の私の故郷の現況です。
これでいいのか?と焦燥感に駆られながら、一日も早く実家へ戻る日を夢想する日々です。

さて、この「初代・西校舎」ですが、いつの頃に建てられたのかは不明です。
もっと詳しく調べればわかるとは思うのですが、いかんせん地元を離れてては資料もままならなくて…。
ちなみに、上記「初代・西校舎」を映したポイントとその位置関係を全体像から見てみます。
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昭和39年頃の成徳全景空撮です。白亜校舎群の全てを網羅した取り壊し直前の貴重な画像です。
上記掲載「初代・西校舎」の画像は、画像内に示してあるポイントから黄色矢印方向に向かっての撮影アングルです。
こうして見ると、「初代・西校舎」は逆L字型の建物のようですね。
そして、その「初代・西校舎」の手前、学校前通りに面した建物ですが、これが「2代目・西校舎」となります。
ただ、名称は「西新校舎」…純粋に「西校舎」ではないのですが、西側に立った新校舎って事ですかね?
私の父の時代に既に存在していたそうで、この両校舎で父は学んだそうです。
この「西新校舎」も「初代」と同様に逆L字型の建物だったようです。

何となくなんですが、この同時期に「西」に校舎が2つあって…普通なら何となく「第1西校舎」「第2西校舎」みたいな番号で使い分けするのが一般的な感じがしますが、あえて番号で呼称せずに「西新校舎」と言う名称を与えた当時の関係者の粋なセンスに脱帽です。
順番的に考えたら「北校舎」でもよかったろうに?(笑)
そして、最初の「3代目・西校舎」、先の「初代・2代目 西校舎」の画像に共通して存在する「地下道入り口」と言うやつですが、実は成徳小学校の校庭は表通りの道の高さより少し高い位置にあるのです。
街中の平野部に存在しているのですが、校庭側は後ろに控える「打吹山麓」の端っこに引っ掛かり少し高い位置にあるのです。
そこへ行くための通路が白亜時代は校舎の下を、私たち3代目西校舎の時代は新校舎と西校舎を繋ぐ渡り廊下の下を…それぞれ貫通して校庭に繋がってました。
なので、私が在学していたころは、この地下道入り口が通用口のような存在で、地下道を入ってすぐ左側の新校舎地下道に入ったらそこが下足場でした。
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地下通路は「西新校舎」の下を貫通して抜け、校舎を過ぎると半地下構造になって明り取りの窓があったそうです。
「西新校舎」とその奥の「西校舎」間は渡り廊下が存在し、その渡り廊下は画像で示してある通り、2階構造になっており、上部は渡り廊下、下部は半地下式の地下通路となり再び今度は「西校舎」下を貫通して校庭へ抜ける…と言った構造だったそうです。
上記画像にも地面スレスレに窓があるのが確認できますが、こちらが半地下式になった地下通路の明り取りの窓だそうです(父からの証言)

そして、初代・2代目・3代目…と変遷を経て、平成30年の今現在…
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と、こちらが4代目「西校舎」である現行の西校舎であります。
時代ですね!もうごく普通の「鉄筋造り」です。
先ほど言った「地下通路」ですが、校庭側から見るとこんな感じ(緑矢印)になります。
白亜時代は位置関係的に恐らく「講堂」付近に抜けていたんでしょうね?。
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今現在、平成白亜校舎になってからの「地下道」現況です。
画像コメにもある通り、当時は通常ここを通って通ってました。
(正門は体育館横、市役所側「椎の木園」入り口)
当時はこの地下道左側に入り口があり、旧新校舎地下道へのは入り口になっておりました。
その旧新校舎地下道がいわゆる「下足場」でホントに薄暗く、かなり不気味な雰囲気満点でしたね!
今考えたらよくあんなところを下足場にしたもんだ!…と思います。
もうちょっと照明とか工夫したらそれなりに明るい感じもしたのかもしれませんが、なんと言っても天下の丹下健三がデザインした旧新校舎…コンクリート剥き出しの超前衛作品!!表の目立つところでさえそんな殺風景な仕上がりなのに、地下道だなんて…丹下氏的にはもっともどうでもいい場所だったのでは?って思っちゃいます。

平成30年の現代、平成の白亜校舎も新築され、この地下道も新たに整備されたようで、旧新校舎時代の地下道はすっかり塞がれて、往時の面影は全くありません。
一面のただの「壁」と化しておりました。
が!表通りから地下道を通して見える校庭側の見え具合…この景色は当時とほぼ変わらず往時のままです。
白亜校舎から、旧新校舎…そして平成の白亜校舎と時代の流れにそってそれぞれの時代を全うした、またはこれから全うする各校舎群ですが、4代にわたる歴代「西校舎」、そしてそこに変わらず存在し続ける「地下通路」…これから先もここを通る生徒たちをどうかずっとずっと見守って200周年、300周年と永久に続かんことを祈るばかりです。


2019年3月3日 ヤフーブログより引っ越し


2018/8/18(土) 午後 11:25


ども。
偽者の「京都・・・あっ!ここは「成徳」ネタでした(笑)

お盆休みは如何でしたか。成徳小学校卒業生の方々。
おそらくお盆ですからね!久々に帰省して母校の平成白亜校舎を初めて見た!!
って人も大勢おられるのではないでしょうか。

さて、本日は「終戦記念日」・・・って書いてる今はちょうど午前さま前なんですが、おそらく書き終えた頃には日付が・・・16日に・・・無念。

などと言ってる最中に、プチ出張で大阪行き!!

・・・ただいまです!今18日となってしまいました・・・書き始めてからもう3日も経ってしまいました。失礼致しました。

と、それは置いといて。
成徳ネタなら・・・お約束の(笑)
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※【拡散希望】成徳卒業生の皆さん、母校の本当の「1番」の存在を知り、正しい事実をしっかり後世に伝えましょう、それが先輩の務めです。

・・・って事で。

終戦から73年、私の年齢よりも遥かに長い年月を数えます。
もうちょっとすれば「100年」・・・
そんなに経っても、いつまでも日本「だけ」が悪者にされてる未来なんでしょうかね?。
実は終戦記念日の15日、うちの倅とDVDを観賞しました。
タイトルは・・・

「独立愚連隊西へ」(笑)
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おいおい?
いくら終戦記念日だからって・・・。

うちの倅は小学校5年生・・・

(更に)おいおい!!・・・

ってな感じでしょうか。でもね?うちの子が率先して「これ見る」って言い出した物ですからね、親としてはコミュニケーションですわ!!

(独立愚連隊を見て親子のコミュニケーションとる家族って日本にどのくらいいるんだろう?)

とまあ、余計な心配はご無用で、倅とも上々のコミュニケーション取れましたよ!
元々「軍事マニア」?な私なので、この手のDVDやらはそれなりに持っていて、かなりの「帝国陸海軍」贔屓なので、影響されたかな?。
しかし、この「独立愚連隊西へ」・・・私の中では日本の戦争映画No.1なのです。
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何故か?…

「面白い」からです。

「戦争映画ですよ!?」
「そ、そんな悲惨な戦争を扱っている映画を観て(面白い)だなんて!!」・・・
とプロ市民の声が聞こえて来そうですね。
すみませんねぇ~、私どちらかと言えば「右寄り」かも?

まあ、そんな思想的なものはこのブログでは無しって事に・・・と、一応「建前」ではそうなってますけど・・・ふっふっふ・・・。

いやいや、何が面白いかってもちろん扱っている内容、場の設定は戦時中の話です。
中国戦線でのある1コ小隊の物語なんですが、これがまた今から60年近くも前に作られたとは思えないくらい、ユーモアとアイデアに溢れた正に「Entertainer」とはこれだ!と思わせてくれる作品だと思います(主観ですよ)

戦争モノを扱うのに「楽しい」とか「痛快娯楽」とは何事ぞ!!
とおそらくこの記事を読んで目くじらを立てる人・・・いるでしょうね。
そんな風に感じたならば・・・この先は読まないでちょ。

この作品が公開されたのは1960年(昭和35年)・・・なんと!私の生まれる4年も前、つまり終戦後僅か15年ほどしか経ってない、まだそこかしこに「戦争の爪跡」が記憶にも街にも残っている・・・そんな時代です。

それなのに、画面に映る映画の中での「戦時中感」は・・・面白いのです。
もちろん映画ですからね!脚色してあるのは違いないのですが、ほんの僅か15年前まで血みどろの大戦争、アメリカ相手に日本の国中を挙げて殺し合いをしていたわけです。
変な例えで言うと、「京都橘」が2005年に「Sing Sing Sing」を創始して今年で13年目・・・それとほぼ変わらない程度の時の経過なのです。

平成30年の今現在、終戦後73年も経ちますが、年を追うごとに「戦争」と言うキーワードを唱えれば「悲惨な」・・・と言う枕詞が必ず着かなくては違法だ!と言わんばかりの昨今ですが、どうでしょう?この「独立愚連隊西へ」の作中での爽快感!?素直に言わせてもらうと真逆とまでは行かないまでも大きな隔たりがあるな?と感じます。
戦争が悲惨じゃないなどと言うつもりはありません、悲惨でしょう。
が、しかし!この作中に登場している役者さんの多くもつい10年ちょっと前に現役で「帝国軍人」として戦場に赴いていた人達も沢山いたはずです。
そんな彼らが出演し、演じるこの映画の中には平成の今の戦争映画全般に漂う「悲壮感」「悲惨さ」「日本が悪かったのだ感」などまるでありません。

単純に「痛快娯楽戦争映画」なのです!痛快であり娯楽と割り切ってますからね。
暴れん坊将軍と同列です。だから面白い。

うちの倅は「キャッキャ」言って愉しんでましたね!
変な戦争アレルギー、自虐史観みたいなものに毒されてない人間が見たら、この映画は「面白い」と思うんです。
もちろん製作側の人間が戦争を悲惨だなんて思ってない!・・・なんて事はないと思いますよ?(想像ですが)悲惨であり哀しい出来事であったと痛烈に思っておられたでしょう。(実際に戦場にも赴かれた方も大勢おられるでしょうし)
が、それはそれ、これはこれ。割り切れるだけの根性が「昭和」の野郎たちにはあったのだと思うわけです。
それに、何となく戦後の混乱期においては、その70年前の明治維新後の明治人のポピュリズム(楽天主義)的なものと通じるものが戦前の日本人には多々あったのでは?と思うところです。
平成の今は・・・ホント、政治の場も普段の日常、そしてこんな場末のブログの記事ひとつでも、随分と窮屈な世界なのだなぁ~と先日あったある件で痛感した次第です。

ちなみに、この「独立愚連隊西へ」の監督は岡本喜八、なんと鳥取県米子市出身の方で、数年前にリメイクされた「日本のいちばん長い日」の元作品の監督も務められた方です。
「日本のいちばん長い日」は昭和20年8月15日の終戦の数日前から前夜・当日に掛けての男達の物語なのですが、同じ監督とは言え「独立愚連隊西へ」とは真逆で笑いとユーモアなどは全くありません。歴史的事実を淡々と時に深く、真剣に描写して当時の指導者、軍、それぞれの立場での想い、苦悩、人間模様を秀逸に描き出してました!これも私大好きな作品(日本の戦争映画の中で)のひとつです。
数年前に同タイトルでリメイク版が製作されて随分期待したんですよ!元作品はやはり時代的に白黒作品だったので、平成の現代・・・カラー化はもちろん、CGなどを駆使した、例えば空襲等で焼け野原になった東京の街並み、空襲にやってくるB29などの敵航空機の描写等々、当時の元作品よりも更にグレードアップされた迫力の映像を期待していたのですが・・・誰が「主役」なのかがぼんやりしてしまって・・・全体的になんとなくボワ~ンと薄味な感じになってしまって、全くインパクトが無かったですね。(もちろん個人的感想ですよ?)
昭和天皇役の本木さん、陸軍大臣阿南大将役の役所さん、鈴木総理役の山崎さんなどなど、日本映画界の大物役者がそれぞれの重要な役どころにキャスティングされて・・・はよかったのですが、だれもが主役級のキャスティングが裏目にでて、中心人物が誰なのか?・・・が、ぼんやりしてしまった感は否めないかな?・・・と。
それで、何とも言えない薄~い感じの印象しか残らなかったのかな?と私見ながら思ったわけです。
元作品では、阿南大将役の「三船敏郎」がガッチリ中心人物として物語が進行していきましたから、笑いもユーモアも無いのですが、娯楽作品としては秀逸だったと思います。
しかし、同じ内容、同一タイトルであるにも関わらず平成のリメイク版がまったくぼんやりとしてしまったのは、やはり戦後の「戦争は悲惨」・・・と言う言葉、台詞、雰囲気だけが先行してしまい、それを盛り込まないと「違法である」と言わんばかりの世の同調圧力?めいた空気があるのかもしれませんね?。

個人的な思いですが、よく「戦争美談」とかあって、また逆にそれを否定する輩が存在します。
「それは戦争を「美化」しているのだ!」と声高に正義感を振りかざしますが。
私は「戦争にも「美談」と言うものがあってもいい」と思ってます。
「美しい」と言う文字を使うのがダメならば「勇談」と言いなおしても良いかもしれません。
もちろん「戦争」なんてやらないに越した事はありません。
が、始まってしまったからにはヤラねばなりません!
当然、人と人の殺し合いです、そこには悲惨な、悲しい、惨い・・・と言ったありとあらゆる惨たらしさを表現する為の言葉が溢れることでしょう。
しかし、その中でさえ「誰かを助ける為に、己の命を犠牲にして救った!」と言うような談話は数限りなく存在するはずです。
そう言ったものを「美談」と言います。
何がいけないのでしょうか?
「戦争に行ってる最中に行った行為だから、例えそれが人を助けた話でも「美談」ではない、それは戦争そのものを「美化」することだ!」
と私からすると、ほとんど子供が屁理屈をコネてんのか?って思うような台詞を言う連中がいますが・・・さてさて・・・。
まあ、ここでは思想的な話は「建前」上、なし!って事にしてるのですが・・・

このブログの主は、こんなヤツなんです!・・・すみません。

私、日本のためにひとつしか無い命を捧げられた英霊の方々を深く尊敬しておりますので。
己の意思に関係なく・・・かもしれません、が、彼らは・・・彼の地で潔く使命感を持ってお国の為、家族・友人、大事なものの為に戦ったのです。
彼らの名誉を貶めるような連中とは相容れることは永遠にないでしょうからね。
こいつとは合わん!って思われる方はどうぞ他へ!

と言う事で、ホントに今日は前置き(と言う名の長い説教)が長くなりましたが・・・やっと本題です!(笑)

「成徳小学校」旧・西校舎・・・白亜校舎時代は「南校舎」と呼ばれていた校舎ですが、先日来何かと話題となりました(このブログ内の内輪の話ですけどね)

同郷で、同じ学校の2コ上の先輩が、ブログの先輩でもありあれこれご指南頂いておりますが、先日その「旧・西校舎」の件であれこれ議論をしたのです。

まあ、それは決着したのですが、と同時にある疑問が?・・・
イメージ 3

これは昭和48年ごろの「成徳小学校 西校舎」の画像です。
この校舎の各部屋の配置などで揉めてた?(笑)・・・いやいや議論していたのですが、そちらの方は決着しました。
イメージ 4


この画像を基にした見取り図です。
先日の議論の中心は「教頭室」の存在でした。
が、それはこちら・・・
イメージ 5


白亜校舎時代の見取り図(成徳小学校創立120周年記念誌折込)となりますが、こちらの見取り図によると、当時から校舎中央付近は「校長室」及び「応接室」のみとなっております。
これが決定打となって問題は決着したのですが・・・

今度は、「では、この見取り図だと旧・西校舎にあった(中央階段)が図示されてないけど、これはどうなってるんだ?」と言う問題にぶち当たったわけです。

確かに!
最初の見取り図(カラー・昭和49年頃)には、校舎中央付近に階段があります(中央階段・仮称)が、こちらの白亜校舎時代の見取り図(白黒)の南校舎(後の旧・西校舎)の校舎中央付近には階段らしきものが一切表記(図示)されておりません。

となると?南校舎(旧・西校舎)は2階建てですが、一体どうやって上り下りしてたんだ?と言う疑問にぶち当たったわけです。

そこで、先日帰省した際に恒例の我が父に聞いてみたのです。
すると・・・校舎の両端に階段があった!との新事実が。
何かの思い違いでは?と何度も確認したのですが、父もそこの存在ははっきりと覚えていて、当時その階段で同級生と大喧嘩をしたそうで・・・それで卒業してもはや70年以上も経つのに鮮明に覚えているそうです。
そうなると・・・さて?困った困った・・・私達の時代には西校舎(旧南校舎)の中央には内階段があってそれが唯一の上り下りをする階段だったわけです。
が、見取り図には一切「中央階段」らしき表示はなし、父の証言で校舎両端に階段があった・・・しかも「内階段」・・・どういう事だ?と混乱してきました。

そこで、先日ある「仮説」を立てました。
もしかしたら、認識にズレがあるのでは?・・・と。
こちらを見て下さい。
イメージ 6

これは先日(お盆前)プチ帰省をした際に、父から聞いたコトを基にした図です。
父が「内階段だった」と言っていたので、私は端っから校舎内に「階段」が設置されていると思っておりました。
なので、実際には上図で赤四角で示してある地域は、父が主張する・・・と言うより、私が「校舎の両端に・・・」と言う父の証言を基に想定した位置になるのです。

ところが、白亜時代の成徳小学校を空撮した画像があります。
イメージ 7

こちらになりますが、昭和39年頃?取り壊し目前の頃の白亜校舎全景です。
本当は完全カラー化してから掲載したかったのですが・・・まあ後日じっくり仕上げます(笑)。

さて、話が反れましたが。
上記画像内の赤丸の部分を見て下さい。
白亜校舎(東校舎及び中央校舎)と南校舎(旧・西校舎)の間になにやら両端に小さな屋根つきの建物が写ってますよね?
先日、この画像を見てもしかしたらこの小さな建物は「階段」のみの建物で、この建物が南校舎に連結されていて、ココを使って上り下りをしていたのでは?と仮説したのです。
便宜上赤丸の建物を「階段棟(仮称)」とします。
もし、この「階段棟(仮称)」が本当に「南校舎」に連結・結合されていたのならば、生徒からすると建物としっかり繋がっているわけで、独立した外階段と言うものではなく、認識としては「内階段」と言う認識をもってしまうのでは?(屋根付いてますからね)と想像したのです。

なので、父が「内階段」だったわい!と主張した時に、私のようなごく一般的な「内階段感」を持ってる人間からすると、普通「内階段」って言ったら同一建物内にあるもの!と言う認識を持ちますが、父からするとオフセットされているとは言え、校舎自体にしっかりと連結した建物(階段棟(仮称))内だったので、「内階段」だったと認識していたとしてもおかしくはありません。

そうした「仮説」を確認すべく、今回のお盆での帰省時に確認をしました。
もちろん、この仮説もしっかりと説明をして。

すると・・・結論は・・・「仮説」通りでした。
この上画面に写っている赤丸の建物・・・これは「階段&渡り廊下」棟(仮称)だそうで、階段のみならず渡り廊下も兼ねていた建物だったそうです。
図で説明すると・・・
イメージ 8

概ねこんな感じになります。
つまり、この「階段棟(仮称)」は白亜校舎と南校舎の間に建っていて、白亜・南両校舎と連結・接合されていたわけです。
そして、この「階段棟(仮称)」は渡り廊下も兼ねていて、そのまま白亜・東・中央校舎から南校舎へ移動(その逆も可)出来たそうです。

そして、更に新事実が!
先日の「続・旧西校舎の検証」でも記述したのですが、こちら・・・
イメージ 13
こちらは、昭和50年頃の成徳全景です。
旧・西校舎(南校舎)も健在です。
しかし、先日も少し記述したのですが、この裁判所側の面の、校舎ほぼ中央付近ですが・・・やたらと「板」で目張り?がしてありますよね。塞がれていると言うか・・・。
以前は全く謎だったのですが、今回この「階段」の件を調べていくうちに父から衝撃の事実が!!!

白亜校舎本体は、この旧・西校舎(当時の南校舎)と直接連結・結合されていた!
と言う事らしいのです。

この昭和50年頃の成徳全景画像で見る旧・西校舎西側(裁判所側)側壁中央部が大きく板張りで塞がれているのが、かつてその部分が白亜校舎と繋がっていた跡・・・と言う事になるそうです。
もう一度比べて検証です。
イメージ 10
概ねこのような状況です。
そして、白亜校舎が解体され、南校舎が旧・西校舎へと移設された後が・・・こちら
イメージ 11
こんな感じになります。
Aが白亜校舎との接合部、B及びCは白亜時代の接合部の位置です。
当時は、白亜校舎と接合され、1階及び2階にもそのまま白亜校舎から南校舎へ通行が出来るようになっていたそうです。
その接合部を丸々板張りで目張りしたのでしょうね?此処は。
そして、特に「C」の位置には、私達の時代にも2階から裏の「さくら園」へ抜けるための「亘り廊下」が設置してありました。
イメージ 12
おそらく、旧・西校舎2階南側端のこの開口部が「南校舎」時代の西階段棟との連結部分にあたると想像されます。(場所的に符合する)

ちなみに、反対側の旧・西校舎北側(南校舎時代は東側)の開口部は、おそらく白亜校舎との接合部と同様塞がれて、私達の時代の通用口だった北側側壁(南校舎時代はあ東側側壁)に新たに通用口を設けたものと思われます。

上記掲載の両画像の比較により、南校舎(後の旧・西校舎)の「階段」の真相が判明しました。
見取り図では中々わかりにくかった部分なのですが、白亜時代の空撮画像及び、父からの詳細な聞き取りによって、昭和39年以前の卒業生しか知らない白亜時代の南校舎「階段」の真相を究明できました。

まるで、モザイクかパズルのピースをひとつずつ繋ぎ合わせるような検証をしてきましたが、はっきり言って「たかが(階段)の設置具合」の話です。

でも、こうして詳しい上面図まであるにも関わらず、全く知らない私たちなどから見ると階段の設置場所・方法、校舎の実際の詳細な配置などわからないことだらけなのです。

先日掲載した「窓枠の「色」・・・」でも申し上げたとおりで、「たかが」こんなコトなのです・・・が、いずれ「たかが」(こんなコト)・・・すら全く判らない状態になってしまいますよ?。
今、その記憶を持っておられる大先輩達にもっともっと詳しい事を聞きだして、ほんの些細なコトでもなんでもいい・・・ちゃんと記録して残しておかなければ・・・永遠に判らないで終わってしまいます。
我々の母校の歴史ですからね!教育の変遷その他も結構ですが、その基盤、元となる設備・・・つまり「校舎」の詳細な歴史(構造、立地その他を含め)も是非残しておかなければならないのではないでしょうか。

早速私、先日のお盆の帰省時に・・・何十年ぶりに「水彩絵の具」を買いました。
うちの倅が夏休みの宿題で絵を・・・ではなく、父に白亜時代の建物の色、各校舎の壁の「白」、窓枠、瓦など、先日の「窓枠の「色」・・・」でも記述したとおりで、元の色がわからなければ着色画像は永遠に未完で終わる!・・・と言う事で、父が存命な内、記憶が確かな内に覚えてる限りのあらゆる各色を教えてくれと乞いました。

「濃い灰色だったわい!」「ちょっと茶色かかったような白」・・・

個人の色の表現と言うものはその人の個性が出ます。
その人が○○な「白」と言っても、別の人は全く違う色として表現するかも知れません。
ならば、実際に絵の具を使って、そのものの色を作って教えてくれ!・・・と。
お陰で思いもよらないような色だったり、想像通りの色だったりと新しい発見がありました。
既に地上から消滅して50年以上も経つ建物の色を今更ながら・・・ではありますが、今記録しておかなければ・・・本当に永遠に判らなくなりますよ?
微力ながら成徳の未来の為に活動しているつもりです!(実は私も「活動家」だったのか?(笑))

すみませんね!成徳卒業生以外の方には全く面白くもなんともない話で。
(卒業生でも全く関係ないわ!って思ってる人沢山いるんでしょうね?哀しいですが)
しかし、京都橘高校のネタ目当てでたまたまこの記事を読まれた他校出身の卒業生の方々、今一度自身の母校の事も思い返してみて下さい。

もしかしたら、我が母校と同じような運命を辿ってきている学校もあれば、全く平穏無事な運命で此処まで来てる学校もあるかもしれません。
もし、我が母校「成徳小学校」と似たような状況の軌跡と辿ってきているのならば、是非今出来る限りの力を注いで母校の記録を残してください。
知ってる人が居なくなれば・・・本当に永遠に判らなくなりますよ!?

と言ったところで、今回の件も個人的なコトながら日頃お世話になっている「故郷は倉吉」さんと言う先輩とのやり取りがきっかけで「西校舎って・・・」から始まったのが発端です!(笑)
でも、そのお陰で今回このような事実が(白亜時代の卒業生からすれば当たり前過ぎて・・・って事でしょうが)判明し、我々旧・新校舎時代の卒業せいからすれば未知の事柄がわかってよかったと思います。

たかが校舎の1つ、2つ・・・ですが、されど「校舎」の1つ、2つ・・・ですよ!皆さん


2019年3月3日 ヤフーブログより引っ越し

2018/8/11(土) 午前 0:18


ども。
このところ「橘ネタ」が続いてるので、今回は本来の業務?
「成徳ネタ」です。

さて、「成徳ネタ」と来たら・・・お約束の・・・
イメージ 9
※成徳卒業生の皆さん、母校の本当の「1番」の存在を知り、正しい事実をしっかり後世に伝えましょう、それが先輩の務めです。

って事で「京都橘」期待していた方…すみません…(って、いるのか?)

さて、では本日は久々に・・・

「白亜校舎」・・・

あっ!その前に!!
「京都橘狙い」の方々、本日(今回)のネタ(記事)は本当に「成徳小学校」関係者のみがわかるような内容なので、「オレンジの悪魔」たちのことを期待しておられても、一切出てきません。
なので基本「スルー」して頂いたほうが肩透かしにならずにすむかも知れませんので、あらかじめご忠告しておきます。

では、改めて。

「白亜校舎」・・・

正にこのブログの「原点」と言っても過言ではありません。

なにやら最近はここを端から「京都橘高等学校応援ブログ」と思っている人々が多数おられるみたいな様相を呈しておりますが、決してそんな事はありませぬ!!
(ってお前が「京都橘」ネタばかりやってっからだろ!?…って怒られそうですが)
もちろん、「京都橘」の事は応援しておりますが、京都橘専用応援ブログがメインではありません、その点お間違いのないように。

此処は「誠の心」の言葉を校歌1番の冒頭に戴く我が母校

「倉吉市立成徳小学校」応援ブログなのであります!(キッパリ)

なので、こちらのネタが本分って事です。

って事で、いつまでも初心忘れるべからず!って事で、本日は「成徳ネタ」です。

さて、
「白亜校舎」・・・
イメージ 10
久々ですね!
しかし、いつ見ても壮麗で美しい校舎だと思います。
・・・が、残念ながらもうこの地上には存在しません。
明治6年2月20日、「開蒙学校」として開校し、明治20年「子供達の教育をより良い環境で」と言う地元の有志の方々の尽力により、のちに「白亜の殿堂」と呼ばれる壮麗な「白亜の校舎」が建設され、以後長きにわたって「成徳」の顔としてだけではなく、地域のシンボルとしてこの地に鎮座しておりました。
が、昭和34年の伊勢湾台風などの被害及び建物自体の老朽化等が重なり、昭和39年、数多くの卒業生及び地元の人々に惜しまれつつ取り壊されました。

昭和46年入学の私もわずか7年違いでこの校舎のお世話になるチャンスを永遠に逃がしてしまったわけです。

その後に出来た、私達は便宜上このブログでは「旧・新校舎」と呼んでいますが、この白亜校舎が取り壊されて、代わりに近代的な鉄筋建ての立派な校舎が完成しました。
しかもデザインは当時前衛的なデザインで名を馳せていた「丹下健三」氏。
今も現役で存在する「倉吉市役所本庁舎」のデザイナーでもあります。

元々が和洋折衷的な明治期特有の洋館造りっぽい建築物は好きなので、昔の白亜の校舎など私の中ではドストライクな感じだったのですが、そう思い始めたのはもっと大人になってからですかね?。
私が入学した時にはもう・・・。代わりに超近代的(と言うより超前衛的かも?)な校舎でしたし、当時子供だった私にはあまり関心も無かったので、ただ「鉄筋建て」の校舎だ・・・くらいの思いしかなかったように記憶してます。

ただ、子供ながらにも「旧・新校舎」の前衛ぶりは何となく肌感覚というかそんな雰囲気・息吹は感じてました。
「なんか、この校舎・・・普通のとちょっと違うぞ?」・・・みたいな。
イメージ 1
懐かしき我が校舎です。
まあ、なんだかんだ言ってもこの校舎で6年間(3年生時は除く)学んだんですからね!。
でもよく見てもらえば判ると思うのですが、よくある普通の小学校の建て方と少し違うんですよね?
パッと見、窓・・・やたらに多くありませんか?
特にこの画像の面は北側になるんですが、なにやら校舎の壁に白い四角い物がやたらにありますが、これ以外の部分は全て窓枠がはまってます。
って事は、この白い四角以外は全て「窓」と言う事なんです。
校舎の壁面の面積に対して窓の占める率がやたらに高いんですよ!
って事は・・・地震にメチャメチャ弱いって事です(笑)
だって、耐力壁がほぼ「無い」状態ですからね!!

いやいや、昭和30年代の建築ですからねぇ~・・・相当耐震基準が甘かった時代なんでしょう。今の時代だったら絶対に認可されないかも知れません。

ただ、やはり気鋭のデザイナーによる設計なので「採光性」は満点でしたよ。
廊下も天井から廊下の面際きわまで「窓」でしたから(笑)

ただ、中央階段手前に東西にそれぞれ「男子」「女子」のトイレがあって、そこの壁にあたる部分だけは逆に極端に暗かったんです。
で、それを過ぎて中央階段まで行くと更に明るくなるんですよね!
特に中央階段は外付けタイプ(校舎自体は一体化してますよ)で、その階段の構造部分がほぼ「窓」いっぱいだったので、それはそれは・・・眩しいくらいでした。
イメージ 2
既出ですが、図で説明するとこんな感じですね。
図の赤丸部分の所がちょうどトイレの壁側に相当する部分で、この地域だけがメチャメチャ暗いんです。それ以外はとても明るかったです。
こちらも既出ですが
イメージ 3

こんな感じでした。一般的な小学校と違って内階段ではなかったのや、そんな窓ばかりの校舎・・・そんなかなり前衛的な部分がそこかしこにあって、それはそれで面白かったですね。
あっ!それに前にも言いましたが、昭和30年代の建築、しかも小学校の校舎・・・なのに、「ダストシュート」が装備されてましたからね!この校舎には。
正に近未来って感じでしたが・・・残念ながら「給食の残飯」をそこから投げ捨てるヤツがいて・・・使用禁止に追い込まれてしまいました(泣)
アバウトな「昭和」には・・・早すぎた装備だったのかもしれません。

さて、もう1枚・・・今度はまた「白亜校舎」からですが・・・
イメージ 4
のどかな、とある日・・・と言った感じでしょうか?
なにやら「映画」の1シーンでも観ているような?ここはセットか?と思えてしまうくらいなロケーションですが、紛れも無く「成徳」の白亜校舎正面玄関前です。
こんな「絵に描いた様な」建物があったんですねぇ~本当に。

最近ふと思ったんですよ。
私こうして「成徳」の応援ブログを開設しておりますが、掲載する画像など、自身で帰省の際に撮影するか、あとはほぼ「成徳小学校創立120周年記念誌」からの抜粋・引用と言う形をとらせていただいてます。

ある時から「カラー化」・・・いわゆる「着色」と言う技法を知り、専用ソフトを導入しつつ、ちまちまシコシコと作業をしております。

モノクロの世界で残された各画像ですが、これに色が入った途端に急に隔てていた距離感?が縮まるような?そんな錯覚に陥ります。
もちろん、白黒画像ならではの「魅力」と言うのもあるんですが、大抵古い写真というと「白黒」・・・本当に遥か遠い昔の出来事のように感じてしまいますよね?

ところが、これに色をつけてそれらしくすると・・・瞬時に「昨日のこと?」と思えるほど身近に感じれるんですよね。

まあ素人のお遊びみたいなもので、「出来具合」・・・は、ご愛嬌で!ってとこですが、最近行き詰まってるんです。

なんて、そこまで深刻な話ではないのですが・・・
つまり、元々の「色」が判らない!んです。

どういう事かというと、今現在「自動着色」の技術の進歩は目覚しく、手元の白黒画像をあるサイトで変換作業をするとプログラムを駆使してそれら白黒画像を「自動」で「着色」してくれるんです。
もちろん、プログラムを使うのに「お金」は要りません、無料です。
なので、私も今まで掲載している各種白黒画像などは大抵がまず「自動着色」に掛けます。
ところが?技術の進歩は目覚しい・・・と言いつつも、やはりまだ発展途上の技術でもあるわけです。
また、その元画像のキャプチャーのやり方次第で、光の当たり具合とかそう言った些細なコトが即影響を及ぼして、変に露出が高かったり、逆に暗くなりすぎて再現不能になったり・・・と必ずしも好成績で再現されるわけではありません。
物によっては驚く程綺麗にカラー化されるものもあれば、殆どセピア色になっただけじゃん?って代物まで・・・正に玉石混合状態ですね。
今までの私の経験では概ね50%の成功率と言ったところでしょうか?

そして、自動着色を掛けて出来上がった物を部分修正で着色するか?または殆どカラー化されてないものの一部だけ活用して、残りをほぼ全て手作業で着色していく・・・と言う感じで作業を行っています。

部分修正だと、概ねの色の再現はされているので、一部被って変色している部分や、再現されなかったところを補色したり・・・と言った作業で済むのですが、ほぼ全面手作業と言う時に一番困るのが・・・元の色は何色?と言うところです。

例えば例の「京都橘高等学校吹奏楽部」の項で既に既出ですが、こちらの画像。
イメージ 5
こちらの白黒画像は元画像となります。
「オレンジの悪魔」と異名をとる「京都橘高等学校吹奏楽部」がまだオレンジのユニフォームが誕生する以前の頃の画像です。
これを「自動着色」サイトでプログラムで再現(カラー化)すると・・・
イメージ 6
こんな感じになります。
一応着色はまんべんなく出来ておりますが、全般的にセピアチックな感じです。
此処で、まず着目するのは「既知」の色の物を選別することになります。
この画像で言うなら、絶対にわかっている「色」のものは京都橘のスーザフォンの「白」・・・これだけは確実に判明しています。
では、この画像の中でこの「スーザフォン」の再現色に近いものは・・・となると、あとは「服」「帽子」「ソックス」などとなってきます。
あと、右端のスネア(小太鼓)についてる「紋章」のようなもの、恐らく京都橘の校章?だと思うのですが、マーチングのときのペナントでは「赤」で表示されてますが、色合い的に「赤」ではないようなので、「白」もしくは「黄色」のように想像出来ます、ただスーザフォンの再現色に比べて若干曇っているので、恐らく「黄色」と判断しました。
そのような感じで作業を進めていきますが、その結果がこちら。
イメージ 7
こんな感じです。
あとは、後方にいる他校?のユニフォームやら、観客席のお客さんの服装などはもう・・・「なんちゃって」です。つまり全て想像・デタラメですね(笑)
ただ不思議なのは、全く違う色を着色すると・・・どう表現していいのか判らないのですが、いわゆる「ノリが悪い」?みたいな感覚は感じます。
おそらく、そのもの又は近似色だった場合はすんなりと違和感なくノリますが、「ホントにこれか?」って思うような色だと妙に「ノリ」が悪いなぁ~と直感的な感覚がありますね。ここはソフトを使ってデジタルな部分なのに不思議なモノを感じます。

と、長々と説明しましたが、最近ちょっと行き詰まっている感がありまして・・・
実は冒頭に掲載した画像なんですが、「冬空に映える白亜校舎」なんですけど、私この「成徳小学校」の卒業生ではありますが、実際にこの「白亜校舎」の実物をこの目で見た事がないわけです。
当たり前ですよね!私が生まれた年に取り壊されてしまったわけですから。
となると?校舎などの「なんちゃって着色」をする際に一番困るのが「元の色」なんです。
白亜校舎の画像を見たらたとえそれが白黒画像でも大体の配色は想像は出来ます。
それに、在校中には既出ですが「旧西校舎の検証」などでも散々紹介した「旧・西校舎」がありました。
「白亜校舎」時代の校舎群で唯一残った1棟だったので、屋根瓦の色や、外壁の色などは大いに参考になるのです。
ところが、やはり「白亜校舎」と「旧・西校舎」では元々の造りが全く違い、特に困ったのが「窓枠の色」なんです。
「旧・西校舎」はどちらかと言えば、ごく一般の家庭と同じような造り(当時)の窓枠なのですが、「白亜校舎」の造りは○○式とかどういう表現かはわからないのですが、明治期の建築にはよくあるタイプの造りになっているのですが、その窓枠の色がさっぱりわからないのです。
でも、白黒画像でみても外壁と窓枠ではあきらかに「色が違う」んです。
と言う事は、この窓枠にもちゃんと何某かの色が塗られていた・・・となるわけです。
さて?それが何色なのか?・・・が実物を見た事もない私にとっては最大のネックになってきたわけです。
「白亜校舎」の画像はまだまだ膨大にあるのですが、逐次「カラー化」はしているのですが、いつも全てその最終段階に来て行き詰まるんです。
そう、「窓枠」に色が付けれないんです。判らないから。

「それこそ、そんな時こそ「なんちゃって」でいいじゃん!」って事になるんでしょうが、わたし的には「白亜校舎」の着色は可能な限りオリジナルに忠実にありたいと思っているんですよ。

で、此処にきて、いつもの「我が父」の登場です!(笑)
まあ、なんてったって「戦前」の「成徳卒業生」ですからね!!

で、先日ちょこっと日帰りで帰省した時に聞いてみたんです「窓枠の色」を。

「あぁ、濃い灰色だわ」と即答。

って事で、窓枠問題のあっさり解決で、冒頭の窓枠もその通りに着色して完成!
今後の「白亜校舎」着色においては窓枠に苦労させられることはなくなったわけですが・・・。

でも、よく考えたら・・・こういうのって微妙ですよね?

「濃い灰色」ってどんな灰色?

そう思いませんか?だって、濃い・薄いの判別・判定なんて個人の主観で全然違いますからね!数値的に「白」と「黒」の混合率が○%と○%が「濃い灰色」とかってはっきり決まってるなら別ですが、それすら極めて曖昧な基準で決められているのでは?と思うのです。
例えば、白が30%黒が70%の比率で混ぜられているものだけが「濃い灰色」である・・・って無理ですよね?
じゃあ白が20%で黒が80%だったらどんな灰色って表現するの?って事になります。
「もっと濃い灰色」?・・・バカな(笑)
まあ、そう言った色の基準に関する「工業規格」のような物は多分あるとは思うのですが、別に工業製品を作っているわけではないので、大体の感覚でいいんです。

あと、「白亜校舎」と通常呼んでますが、果たしてどの程度その白亜は「白かった」のか?も微妙なところなんです。
白黒画像で見ても、全てが「白っぽく」写ってます。
しかし、その「白」はどんな「白」なのか?は全く不明です。
これも我が父に聞いたのですが、「若干茶色掛かった(白)」だそうで・・・でも・・・それってどんな「白」なんよ?ってな事になるわけです。

そして、色もそうなんですが、先日「旧西校舎の検証」などでも「旧・西校舎」の事を色々調べたりしてある程度の結論が出ました。
(校長室だとか資料室はどうなんだ?って言ってた問題でした)

そして、実はなんと!
先日の日帰り帰省の際に、父に聞いたんです・・・旧・西校舎の「階段」の件を。
すると驚愕の事実が!

「端っこに階段があったぞ」・・・と。

「えっ?」って感じですよ。

それで、「それは外階段だったの?」と聞いたのですが、「いや内階段だったわい、間違いない、よく覚えとるだわ!そこで同級生と大喧嘩したけんな」

・・・だそうです。

あれれれ???・・・これはまた妙な展開になってきたぞ!って感じで。
その後再度「旧・西校舎」の画像や、先日の見取り図などを照らし合わせたりして再検証している最中ですが、当初もしかして南校舎時代にはそれぞれ両端に内階段があったのを、移築して「西校舎」として活用する際にサイズ的な問題で、そのままでは移築出来ないから両端の外階段を撤去して、代わりに中央玄関&階段を増築して、我々がよく知る「旧・西校舎」の姿になった・・・つまり、南校舎時代と比べて若干校舎の全長が短くなったのだろう、だから西校舎になった時には「内階段」は存在しなかった・・・と言う仮説を立てたのですが、「南校舎時代」の画像をどうみてもそんなスペースがないんですよね?(内階段分の)。
南校舎時代と西校舎移築後の画像をくらべても造りは全く変化なしですからね。
これは一体・・・?
そうなると考えられるのは「父の勘違い」?
父はその階段(方角的には東側)で同級生と大喧嘩したそうで、それでよく覚えているそうです、まあそんな事件があれば忘れませんよね?普通は。
ただ、内階段(室内にある階段)だと言っているのですが、こちらの図をご覧下さい
イメージ 8
こちらは先日既出の見取り図ですが、
この黄色い四角の位置に(おそらく2階建て)建物があるのです(東西に1棟ずつ)
見取り図的にも「階段」の表示がしてあるので、まず間違いはないと推測するのですが、赤い四角の位置が父が主張する階段(内階段)の位置です。
若干の位置的ズレがあるのですが、一応黄色い四角も東西に分かれて存在しております。
ただ、この黄色の四角い建物が「階段棟」(仮称)として、では実際どの校舎と連接・連結されていたのだろうか?と言う問題にぶち当たります。
図で示してあるように、南校舎または白亜校舎本館、それとも両方かも?・・・と疑問点がドンドン湧いてきて・・・。

ただ、この建物・・・普通に屋根の付いたミニ校舎のような建物で、もし南校舎(旧南校舎)と棟続きで連結されていたとしたら、感覚的には内階段という意識を持ってもおかしくはないかも?・・・と思うわけです。(建物なので)

ごく一般的に「内階段」って言うと、中央か端っこか、とにかくその建物と平行した位置(同一建物内)に存在するものだという認識がありますが、もしかしたら上記見取り図にあるような少しオフセットされた位置に別棟の階段棟(仮称)のようなものが連結されていたとしても、繋がっていれば正にそれは「内階段」と言う認識になるのでは?と思ったのです。

なので、父の言う「内階段」と言うのも、父的にはごく当たり前にそのオフセットした「階段棟」(仮称)の事を言っているにも関わらず、そう言った事を知らない私のような一般論的な「内階段」感を持ってる人間には「えっ?どこにあるのさ?内階段ってスペース無いぞ?」・・・と言うのが真相なのかもしれません。

と、このようにたかが「階段」ひとつとっても次から次へ疑問だらけ!なのですが、此処に来てこのような事態を鑑みてあるひとつの杞憂を感じたのです。

これらの知識・事実はちゃんと後世に伝えることが出来るのか?・・・と。

「何をそんな、大袈裟な!」と思われる多くの卒業生諸氏がおられると思います。

が!しかし・・・ホントにそう断言できますか?
だって、白亜校舎の窓枠の色すらつい先日まで全く知らなかったんですよ?
私が知らないって事は、ほぼ今50代中盤の人以下はまず知りません。
私には5コ上の姉が居ますが、その姉も昭和41年入学なので、おそらく白亜校舎とは被ってません、と言う事は姉世代ほぼ60歳目前の方々までは全く「白亜校舎」とは接点がないわけです。
恐ろしい事態だと思いませんか?小学1年生の6歳から卒業した平成30年時点で60歳までの人全員が白亜校舎とは一切接点がないのです。
つまりまるで「知らない」わけです。

かろうじて覚えている、知っているのは60歳初頭からあとはお迎えを待っている(甚だ失礼ですが)世代のご老体の方々だけです。

医療の進歩で、長寿世界一になった・・・それはまことに結構な話ではありますが、だからと言って不老不死になったわけではありません。
いずれお迎えはやってきます。
ならば、今ご存命の内に聞いておかなければなら無い事、確認しておかなければならない事、白亜校舎の窓枠の色、白亜の白ってどんな「白」?・・・こんな部外者からすればどうでも良いような些細な事柄でも、知っている人が全て居なくなれば…永遠に知ることは出来なくなるわけです。

「別に窓枠の色がわからなくても成徳は困らんわい!」

と言う方が殆どだろうと思います。確かに実質的に困ることはないでしょう。
でも・・・いつの日か、誰かが何かの機会に・・・

「昔の白亜の校舎の窓枠ってどんな色だったんですか?」
「屋根瓦だったんですよね?黒だったんですか?それとも山陰だから石州瓦って事で赤ですかね?」

これから先の未来に、何かのプロジェクト・イベントなどで仮にそんな質問が出る時が来た時、もはや誰も答えられない事態になります。

白亜校舎の正確な図面・・・多分、取り壊す時に請け負った建設会社などにはその時の実測図なりが残っているやもしれません。
が!しかし、そう言った公式な設計図だとか実測図とかそういう問題ではなく、実際にそこで集い、学び、廊下を走った生徒達が感じた母校の空気感・・・実は当時校舎の裏に秘密のスペースがあって、そこで当時密かに捨て猫にエサをやってたとか(まあこれは極端な話ですけどね)・・・そんな生徒にしかわからないような些細な事柄もちゃんと記録しておかなければ、歴代校長の名前しか判らない学校史・・・だけになってしまいますよ?。

残された時間は限られてます。
私の父も含めて・・・。
だから、今この時が惜しい。
もっともっと色んなところの色んな話を聞いて留めておかないと、白亜校舎の壁の色は・・・「黒」?なんて事を言い出すヤツも現れるかもしれません?。

どこかで聞いた話です。
外国に行くとよく「日本と言う国はどういう国なんだ?」と質問されるそうです。
が、多くの日本人はうまく答えられないらしいです。
するとその様子を見た外国人は皆そう言った人間を相手にしないそうです。
何処までホントか嘘なのか・・・は不明です。
しかし、「自分の国の事をちゃんと答えられない(説明できない)ヤツなんて信用できない」って事らしいですが、ある意味的を得た考えだと私は思います。

そんな事はない!と思う方もおられるでしょう、しかし会社等の採用面接でも同じでしょ?
「何故我が社を受けられたんですか?」と聞かれて、ちゃんと答える事が出来ない奴を積極的に採用しますか?
そんなヤツとは一緒に仕事は出来ない、つまり信用できない…と言う事になるわけです。
小学校も似たようなものと思うのです、母校自身が己の由来・来歴をちゃんと正確に、詳細にわかっていなくてどうするんだ?と。
だから、しっかりと小さな事も含めて記憶も記録も採っておけ!といいたいのです。
そのためには卒業生も自身の父・母、祖父母から積極的に話を聞きだして、後世のためにその記憶・記録を成徳に残して欲しいなぁ~と思った次第です。

大袈裟な話になりました、たかが「窓枠」の色です。
でも、その「窓枠」の色がわからなければ、着色は完全再現は出来ないのです。
これがどういう意味なのか?

わかる人は是非行動してください。

※ほら、だから今回は「京都橘」は出てきませんよ!って言ったじゃん(笑)


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