旭日旗2-860
明けましておめでとうございます

令和2年の幕開けです。
と考えると…5月に平成から令和になった訳で、令和元年はたったの7か月…そりゃ早いですわ(笑)

と、のっけから脱線?気味ですが、
改めて新らしい年を迎えるにあたり、お越しになる皆様にはいかがお過ごしでしょうか?

冒頭からいきなり巨大な「旭日旗」…
…まあ、なんというか…簡単に言えば、某隣国に対する当てつけです!(キッパリ)

私「愛国者」なんで!

一昨年初頭からブログ開設以来、じわじわと訪問者数も増加して、今では連日コメントがくるようなブログに変貌してしまいました。
まことにもってありがたい事で、これもひとえに京都橘ファンと言う、ある意味強烈な思い込み、妄想癖、果ては超絶変態嗜好をもつ膨大な老人(主に)達相手に日々悪戦苦闘している私自身の努力の賜物…?

ん?あれ??何か間違ったぞ!?

と、冗談はさておき、日々訪問者・コメント主各位さまの温かいく、また力強いお力添えのお陰と思っております。
(ん~…ちょっと取り繕い感満点でしたね・笑)

既にご承知の通り、「京都橘」ネタの記事としては、先の夏からずっと更新も滞り、待ち侘びておられる方も多数おられる事と存じます。
今しばらくお待ちください。

今回はブログもほぼ実質活動期間が丸2年を迎えようとしており、また改めて年頭にあたるこの時に、初心を忘れないよう、本来の筋を通そうと思い更新致しました。

って事で、今回は「京都橘」ネタではありません!
残念でございました。

今回は、このブログの本旨である我が母校「倉吉市立成徳小学校」ネタでございます。

全く興味のない方には、まさに「クソ面白くもない」話・内容であります。
って事で全然「スルー」して頂いて結構ですよ!(笑)

ただ、年の始め…一年の計は元旦にあり!ではありませんが、昨年はほぼ年を通して「橘ネタ」で終始したような感じでしたので、今一度初心に帰って…と言った趣向です。

忘れてはならぬのです!

そう、ここは…「京都橘高等学校吹奏楽部の応援特化ブログ

ではないのです!!(キッパリ)

そうなんです!私自身も、そしてお越しになる皆様も今一度…ここは…
成徳小学校応援ブログなのです。

って事で、前置きが長くなりましたが、年の初めはやはり初心に戻り「母校」ネタで…と言うところです。

さて、大晦日から僅か二泊三日の日程でしたが、帰省して参りました。
年寄り夫婦が住むだけの実家、特に何をするでもなく、大晦日のよるは両親は「紅白」、私は紅白もダウンタウンもどちらも見ない派な人なので、ずっとタブレットでYouTube見て過ごしてました。
気付けば知らぬ間に年を越え…まあ、なんとも風情もクソも無い年越しでございました。

元旦はそのままダラダラと寝過ごして、あっという間に帰宅の日…
倅と一緒に帰省したんですが、このグウタラ息子も同じくゲームばかりしてる放蕩三昧のロクでなし!
まあよく似た親子そのものって感じです。

わざわざ実家に帰省している訳ですから、何かしなきゃ!と一念発起。
とりあえず「正月」と言えば…初詣でしょ!ってなもんで、近場の氏神様へ初詣。
大晦日から2晩も経ってますから、昼間と言えどもそこはやはり「田舎」の神社…もう人気はどこえやら?って感じで、行列ができるでもなく、誠にスムーズに本殿社殿へ到達!!
参拝後は恒例の「おみくじ」…なんと私今年の運勢は「大吉」…だそうで!思わず…

一昨年じゃなきゃダメなんです!」(泣)←(何泣きなん?それ?って絶対言ってくる・笑)

どうして、一昨年の定演の時にその運が巡って来なかったんだぁ~!!!…と年明け早々に神様を恨む始末。

まあ、人生そんなもんですわ!
それに「大吉」出ましたが、何処まで当たるかどうか…

って感じで、その後足を延ばして当ブログの主人公、我が母校「成徳小学校」に久々に行って参りました。
1月2日正門2-860
令和2年の我が母校…今年は147歳?だったかな。

因みに、今回は思い切って校内(と言っても校庭までですが)にも入ってみました。
懐かしい景色を久々に見て、過ぎ去った少年の頃の記憶が・・・
成徳俯瞰2-860全体
今回の撮影ポイントはこちら
まあ学校内に入っちゃいましたけど、門扉が閉じられているわけでもなく、当然冬休み、しかも正月ですからね!当然校内には猫一匹いませんでしたよ?。
そもそもうちの小学校って…いわゆる「塀」がないんですよ!昔から(笑)
だから仮に正面方向に塀があっても南側(打吹山方向)には打吹公園が隣接してるので、そっちから地続きで出入り自由なわけで…平成…いや令和の時代の学校セキュリティーを考慮すると…ん~どうなのよ?って気にもなりますが、そんな牧歌的な我が母校のゆる~い所もまたご愛敬ってとこですかね。
もちろん、各校舎は施錠されているものと確信をしております。
(ドア開けたりなんて動作してないので推測ですが・笑)
ただ、「防犯カメラ作動中」って言う表示はあったので、その辺のところは「ああ、やはり今の時代の学校だな」と妙に感心したりして。
倅も一緒だったのでちょっとした「偽装工作」?(笑)ではありませんが、何か問い詰められたら「卒業生で、懐かしいから写メ撮ってました」と正直に言えばいいや!…と(爆)

まあ、そんなこんなで、いつもは外から新築された平成白亜校舎を眺めていただけだったんですが、今回は校庭の端まで進出して、何十年ぶりに見た景色を皆様に…(って何の感動もないでしょうけどね)
因みに、上記画像と下画像の撮影ポイントの詳細はこちら
成徳俯瞰1正門2-860
こんな感じになります。

さて、やはりまず目につくのは「正門」

1月2日正門3-860


初期の頃の記事でも紹介しましたが、この門柱…建立は明治41年、日露戦争が終わったすぐの頃ですね。学校自体は明治六年創立なんですが、それから35年ほど経ってから建立された訳です。
実はこの正門、平成…いや今はもう令和ですね!この令和の時代には現状のこの位置に林立しておりますが、私が現役生で在校していた当時は別の位置にありました

白亜校舎(正門)1
こちらは、昭和30年代に撮影された、旧・白亜校舎を擁する我が母校の往時の全景画像です。
まさに戦前の小学校らしい、重厚かつ威厳を伴う雰囲気満点な感じです。
表通りに面した正門から一直線に続く参道のような建物構成、そしてその参道両脇にそびえる白亜の校舎…映画のセットのような感じです。

昭和50年正門1-860



昭和50年前後の空撮写真となりますが、昭和39年に旧・白亜校舎の取り壊しに伴い、私達が学んだいわゆる「旧・新校舎」が建立されました。
それと同時に表通りに面した位置にあった正門は一時撤去され、数年後上記画像にある位置へ移設されたわけです。
私はこの画像の構成のまま入学・卒業しましたので、在学中はずっと体育館脇に正門がありました。
元の正門の場所は、周りの石垣(陣屋時代の石垣)と同じように偽装され塞がれたわけです。

やがて40数年の時を経て、数奇な運命を辿った我が母校の「正門」は、平成の終わりにまた本来の位置である表通りへ…そしてただ単に表通りに移設されたのではなく、その建立位置も旧へ復されたのであります。

まさに「奇跡の復帰」と言っても過言ではありません。

さて、今回は正門以外にもあれこれ見回した箇所がありますので、先に進みます。
撮影ポイント及び方向等は画像番号等を参照ください。
成徳俯瞰2-860校庭
まずは東側から


校庭体育館側3番-860
これは、校庭から南側(打吹山方向)を見通した状況です。
当時はもっと広かったと感じたんですが、やはり私が大きくなってしまったんでしょうね!?随分とこじんまりしちゃったように感じました。
中央奥にある国旗掲揚台ですが、確か中央の階段の両脇に滑り台があったような記憶が…画像をみると階段だけになってるような気がするんですけどね。
撮影した時にはさほど気にも留めてなかったんですが、帰宅後よくみたら「あれ?」ってなもんで。
まあ、あれからもう40年以上もの年月が経ってますからねぇ~…ただ掲揚ポールはそのままそびえ建っているので妙に安心したところもありました「あぁ…変わってないなぁ~」っと。
この国旗掲揚台の後ろ&左右に森の緑がひろがっておりますが、実はこの掲揚台のすぐ後ろは「打吹公園」と言う市営の公園なのです。
私が在学中は学校の敷地と公園との境の樹木は殆どありませんでしたから、学校に公園があるのか?公園内に学校があるのか?よくわからない状態(笑)だったのですが、今はかなり樹木も生い茂り、鬱蒼とした樹木が凄いですね!
まあ、見てくれよりはそこまで激しい植生でもないので、今でも十分公園側と学校の敷地との行き来はたやすく出来ちゃうんですけどね。(そもそも、そっちにすら柵も塀もない)
なので、たまに休憩時間には校庭だけでなく公園にも行って遊んでた事もあります。
(本当はあまりよろしくないって言われてたんですけどね)
校庭体育館側2-860西校舎方向
こちらは、同じ場所から更に西側に寄った画像です。
当ブログで頻繁に出演している「西校舎」が映っております。ちなみにこの西校舎は通算四代目となります(詳しくは「」をご覧ください)
この現在の西校舎、実は私達が在学中に存在していた三代目西校舎(木造)の位置よりも校舎1個分西側に寄って建てられております。
成徳小学校の西隣には倉吉簡易裁判所が昔からあるのですが(私の在学中もです)、三代目西校舎の老朽化に伴う立て替えの前に、裁判所庁舎も老朽化による建て替えが重なったらしく、新しい裁判所庁舎はコンパクトにすると言う事と、成徳小学校の敷地が手狭と言うちょうど両者の利害が一致して、裁判所の土地を校舎1個分割譲してくれると言う事に決まったそうで、それで今現在建っている四代目西校舎を建設する際に三代目西校舎の位置よりも校舎1個分西寄りに建設されたと言う次第です。
なので、私の時代と全く同じ位置にあると言う訳ではありませんし、木造校舎だったのが、鉄筋…しかも2階建てが3階建てと言う位置も・建物の規模も材質からして全て違うんですが、全体の校舎群の配置が似たような配置なので、パッと見た目はそんなに思ったほど違和感がないんですよねぇ~。
上記画像で破線で示してある場所には、当時ゴミ焼却炉があって、美化の時間に出たごみを燃やしに行きました。
このごみ焼却炉も当番制で、当番に当たってた生徒が持ってきたゴミをジャンジャン炉にぶち込んで燃やしてましたね!時折先生も監督してましたが(火を取り扱う関係上?)、ほぼほぼ生徒だけの時が多かったように思います。
今の時代だとまず考えれれないですよね?子供たちだけしかいないのに、思いっきり火を燃やしている焼却炉の作業・管理をさせてるんですから!
今ならさしずめ「怪我・火傷でも負ったらどうするんだ!!」「誰が責任を取るんだ!」などと、擦り付け合いが始まる事でしょうねぇ~(笑)
が!当時の私達は、全くそんな事露ほどにも感じず、多少火傷チックな事になっても全然平気でしたけどね。
「あ~ぁ、保健室で赤チン塗ってくるわ!」ってなもんですよ(爆)

そう、天下無敵の万能薬「赤チン」を!!

もう切り傷だろうが擦り傷だろうが、果ては腹が痛いだの、足が痛いだの言っても「赤チン塗っとけ!」なんて普通に言ってましたからね(笑)
そんな赤チンもいつの間にか保健室から消えてしまって…風の噂ではなんでも「水銀」が入ってるだの云々…知らんがな!あんな便利な薬は是非復活させてもらいたいものです。

閑話休題

目を転じて同じ位置から今度は北側…平成白亜校舎側を見てみます。
足洗い場東側1-2
足洗い場ですね、東側の。
ちょうどここは校舎から出て校庭へ出る境目になるところなんです。
だから「足洗い場」がありました。
当時は、健康に良いからとか、足を鍛える為…などと称して「裸足」で体育をよくやらされた記憶があります。
当然、整備された校庭とは言え「土」ですからね!足の裏はしっかり汚れるわけです。
だから校舎へ上がる前にここでしっかり足を洗いなさいってコトなんですねぇ~。

ただ、これは今回ホント何十年ぶりに確認して分かったんですが、私の時代の足洗い場と違ってるんですよ。
画像にも示してありますが、私の時代の足洗い場はちょうどこの画面に映る構成と真逆なんです。
画像向かって中央の水道を境に右側が洗い場、左が通路だったんですが、今はその逆になってます。
参考の為に旧状はこんな感じで
旧東足洗い場1-860
2015年、旧・新校舎が取り壊される直前頃に撮影された画像です。
先の説明の通り、右側が洗い場、左側が通路となっておりますが…平成白亜校舎新築の際に新たに新造されたようですね?
しかし…ここまで新造する意図は一体なんだったんだろう?
ただの足洗い場なのに…しかも立て替えの校舎とはそれなりに離隔してますから、工事の影響を受けるとも思えないし…。
ただ…思い当たるのは、当時からこの足洗い場にあった水道場の蛇口…結構サビサビで、蛇口がサビで茶色になってましたからね!おまけに飲んでみるともう…まさに「鉄」の味満点!!(笑)
もう当時から下手なサプリメントで鉄分採るよりも、日常的に鉄分を採っているような状況だったかもしれません。(だから貧血になる事がなかったのか?・笑)
そんな事を思い出してました。

そしてここから少しだけ平成白亜校舎側に寄って・・・
校舎前テラス体育館側1-860
校舎とプールの間の通路…私達はテラスって呼んでましたけど、この雰囲気は同じですね。
ただ、校庭の時も思ったんですが、当時はこのテラスの幅も…もっとだだっ広いテラスって感じてたのに…いまは本当に通路くらいにしか見えないって感じです。
教室からプールの柵までの距離がとてつもなく広い・遠いってあの頃はそう思ってたのに・・・
ただ、このテラスを構成しているコンクリートは当時のモノとは違うんでしょうね?
校舎建築時に恐らくこの周りのコンクリートは軒並み剥がされてしまってるでしょうから、私達の時代に打ってあったコンクリートとは別物で仕上げてあるんだと思います。
そう思うと、また一つ私達の生きた証を知る文物が…と言う想いが木枯らしのように吹き流されて行く感じがする今日この頃でありました。

さて今度は表通りに戻ってぐるっと回って西側に行きました。
成徳名物の「地下道」…。(こちらも詳しくは「」を参照ください)
先ほど、旧白亜校舎の画像にも写り込んでましたが、当時からずっと存在していたものです。
当然、私の学んだ旧・新校舎時代にも存在しておりましたが、今の平成白亜校舎にもそのまま残っております。
地下道1
地下道2
私の在学中と眺めはほぼ一緒です。
ただ、私の頃は画面向かって左側の壁には地下通路があって旧・新校舎の地階に通じてたんです、そしてその地階が下足場だったんです。
だから、通学の時ここから入って地下通路に入り、下足場で上履きに履き替えて階段を上がって1階に…と言った流れで登校してました。もちろん下校時はその逆順です。
私の時代とは若干構成が違ってしまってますが、しかし!地下道には変わりはありません。
私も、そして私の父も叔父も叔母も姉も…皆、この地下道を通ってかよっていった、まさに「伝統」の地下道なのであります!!

その伝統の地下道を入ってスロープを上ると・・・
足洗い場西側1-860
う~む…これまた懐かしい光景です。
ちょうど地下道入り口からみたスロープを上がり切った位置になります。
上記画像はその位置から体育館側(東側)を見た光景になりますが、手前の本プール(成徳では25mプールの事を本プールと言ってました)の手前に旧西足洗い場跡と表記してますが、当時は先ほどの東足洗い場の対としてこちら側(西側)にも足洗い場がありました。
ちょうどここが西側から校庭へ出る境目の場所に当たっていたからです。
しかし、先日確認してみたら…もう足洗い場自体が存在しておりませんでした!
ただ…画像左端にちょこっとだけ写っている「水道」が見えるんですが、これだけが恐らくかつてここに「足洗い場」があった唯一の痕跡なのでは?…と思う次第です。
画像右側奥に点線で表記しておりますが、かつてここには「図書館」が存在しておりました。
そもそもその「図書館」も元を正せば「」と言う学校創立80周年を記念して建てられた建物だったらしく、旧白亜校舎時代には表通りの正門をくぐるとすぐ左側に建っていた建物でした。
旧白亜校舎取り壊しに伴い、解体・移築され上記画像表示位置に再建立されたのですが…こちらは私が全く知らない内に取り壊されていたようです。

そして、少し平成白亜校舎側へ寄ってみた画像です
足洗い場西側2-860

こんな間近で平成白亜校舎を見たのは初めてですね!…って言うか、この位置に立つのもホント何十年ぶり?って感じなんですけどね(爆)
この画像でみると、校舎群を構成する各建物は殆どが様変わりしているはずなんですが、建っている場所自体がほぼ同じ位置、似たような規模であるため、まるで別物…と言うほどの違和感を感じないんですよねぇ~…。
アラ探し的な目で、鵜の目鷹の目状態で見くらべれば、そりゃ湧いて出てくるほどあれこれありますが、パッと見た感じではほとんど同じ立地構成なので、そんなに感じないんですよねぇ~…なんというか…雰囲気?みたいなものが。
だから、このまったく中に入った事も無い「平成白亜校舎」自体も、全く知らないのに何となく普通に受け入れている自分がいます。
やはり同じ位置、規模(厳密には3階建てが2階建ての減築ですが)なので、大きく違和感を感じません。
慣れてしまったら…もう何十年も前からそこにある?と見紛うばかり…な感じかも(笑)

そして今回最後にこちらを・・・
地下道1-860
上がってきたスロープを逆に見下ろした画像です。
この眺めはほぼ変わりませんね!
両脇に切り立つ丸石の石垣…全く当時のままです。
よくこの丸石垣によじ登って一番高いところ付近まで登ったりして遊んでたんですが、当時そこまで登るとかなり恐怖感を感じましたね!それだけ高いんです。
ところが!今回此処を見上げてみても…ちょっとジャンプすればすぐに一番高い石垣近くまで届いてしまったり…と、当時あれだけ絶壁感を感じていた丸石垣なのに・・・と、ここでも自身の成長ぶり(って言うか老化だろ!・笑)に経ち過ぎた月日を感じる私でありました。

スロープ中腹辺りの地面に、ハニカム模様(ハチの巣模様)のすべり止めの細工がしてあるんですが、これもまた懐かしい光景でした。
この部分は当時のまま残ってたんですねぇ~。中腹より下は恐らく近年の改修なんでしょうね?、普通の車道などの坂道に施してある丸い凹凸細工がしてありました。

学校施設の殆どが、在学中のモノとは様変わりしている今日の我が母校「成徳小学校」
学んだ校舎も(旧・新校舎、西校舎ともに)既に代変わり又は破却され、当時を彷彿させるものが年々減ってきている現状…やがて今はまだ残存している体育館や本プールなど、残された僅かな追憶のアイテムも消滅する日がやってくるのかもしれません。
まあ、その日まで私自身が生きていれば…の話ですけどね!(笑)
しかし、願わくば旧鳥取藩倉吉代官 荒尾氏陣屋跡の石垣の上にそびえ立ち、明治・大正・昭和・平成、そして令和の時代まで続く、数多の生徒の笑顔と歓声を通わせた「正門」と「地下道」が存続する限り、きっと我が母校の未来は続くのだ!…いや、そうに違いない!!…と切に願う今日この頃。

そうそう、久々だったのでついうっかり忘れるとこだった!
成徳校歌-1000

成徳ネタの時はこれを掲載しなければ!!

※欠番になった我が校歌1番の詳細については「」こちらをご覧ください

もし卒業生で見ている人が居たら、どうか共に祈ってください。
誠の心ひとすじに、己が勇気を揺り起こし…欠番になった本当の校歌1番に謳われているように、決して「」にも負ける事なく、我が母校「成徳」がずっとずっと栄える事を!

正義は我にあり。

…とつい興奮してしまいましたね。
ただ…今年は少し楽観してるんです!
だって、今年の私は「大吉」ですからね(爆)