2019年3月3日 ヤフーブログより引っ越し

2018/8/11(土) 午前 0:18


ども。
このところ「橘ネタ」が続いてるので、今回は本来の業務?
「成徳ネタ」です。

さて、「成徳ネタ」と来たら・・・お約束の・・・
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※成徳卒業生の皆さん、母校の本当の「1番」の存在を知り、正しい事実をしっかり後世に伝えましょう、それが先輩の務めです。

って事で「京都橘」期待していた方…すみません…(って、いるのか?)

さて、では本日は久々に・・・

「白亜校舎」・・・

あっ!その前に!!
「京都橘狙い」の方々、本日(今回)のネタ(記事)は本当に「成徳小学校」関係者のみがわかるような内容なので、「オレンジの悪魔」たちのことを期待しておられても、一切出てきません。
なので基本「スルー」して頂いたほうが肩透かしにならずにすむかも知れませんので、あらかじめご忠告しておきます。

では、改めて。

「白亜校舎」・・・

正にこのブログの「原点」と言っても過言ではありません。

なにやら最近はここを端から「京都橘高等学校応援ブログ」と思っている人々が多数おられるみたいな様相を呈しておりますが、決してそんな事はありませぬ!!
(ってお前が「京都橘」ネタばかりやってっからだろ!?…って怒られそうですが)
もちろん、「京都橘」の事は応援しておりますが、京都橘専用応援ブログがメインではありません、その点お間違いのないように。

此処は「誠の心」の言葉を校歌1番の冒頭に戴く我が母校

「倉吉市立成徳小学校」応援ブログなのであります!(キッパリ)

なので、こちらのネタが本分って事です。

って事で、いつまでも初心忘れるべからず!って事で、本日は「成徳ネタ」です。

さて、
「白亜校舎」・・・
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久々ですね!
しかし、いつ見ても壮麗で美しい校舎だと思います。
・・・が、残念ながらもうこの地上には存在しません。
明治6年2月20日、「開蒙学校」として開校し、明治20年「子供達の教育をより良い環境で」と言う地元の有志の方々の尽力により、のちに「白亜の殿堂」と呼ばれる壮麗な「白亜の校舎」が建設され、以後長きにわたって「成徳」の顔としてだけではなく、地域のシンボルとしてこの地に鎮座しておりました。
が、昭和34年の伊勢湾台風などの被害及び建物自体の老朽化等が重なり、昭和39年、数多くの卒業生及び地元の人々に惜しまれつつ取り壊されました。

昭和46年入学の私もわずか7年違いでこの校舎のお世話になるチャンスを永遠に逃がしてしまったわけです。

その後に出来た、私達は便宜上このブログでは「旧・新校舎」と呼んでいますが、この白亜校舎が取り壊されて、代わりに近代的な鉄筋建ての立派な校舎が完成しました。
しかもデザインは当時前衛的なデザインで名を馳せていた「丹下健三」氏。
今も現役で存在する「倉吉市役所本庁舎」のデザイナーでもあります。

元々が和洋折衷的な明治期特有の洋館造りっぽい建築物は好きなので、昔の白亜の校舎など私の中ではドストライクな感じだったのですが、そう思い始めたのはもっと大人になってからですかね?。
私が入学した時にはもう・・・。代わりに超近代的(と言うより超前衛的かも?)な校舎でしたし、当時子供だった私にはあまり関心も無かったので、ただ「鉄筋建て」の校舎だ・・・くらいの思いしかなかったように記憶してます。

ただ、子供ながらにも「旧・新校舎」の前衛ぶりは何となく肌感覚というかそんな雰囲気・息吹は感じてました。
「なんか、この校舎・・・普通のとちょっと違うぞ?」・・・みたいな。
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懐かしき我が校舎です。
まあ、なんだかんだ言ってもこの校舎で6年間(3年生時は除く)学んだんですからね!。
でもよく見てもらえば判ると思うのですが、よくある普通の小学校の建て方と少し違うんですよね?
パッと見、窓・・・やたらに多くありませんか?
特にこの画像の面は北側になるんですが、なにやら校舎の壁に白い四角い物がやたらにありますが、これ以外の部分は全て窓枠がはまってます。
って事は、この白い四角以外は全て「窓」と言う事なんです。
校舎の壁面の面積に対して窓の占める率がやたらに高いんですよ!
って事は・・・地震にメチャメチャ弱いって事です(笑)
だって、耐力壁がほぼ「無い」状態ですからね!!

いやいや、昭和30年代の建築ですからねぇ~・・・相当耐震基準が甘かった時代なんでしょう。今の時代だったら絶対に認可されないかも知れません。

ただ、やはり気鋭のデザイナーによる設計なので「採光性」は満点でしたよ。
廊下も天井から廊下の面際きわまで「窓」でしたから(笑)

ただ、中央階段手前に東西にそれぞれ「男子」「女子」のトイレがあって、そこの壁にあたる部分だけは逆に極端に暗かったんです。
で、それを過ぎて中央階段まで行くと更に明るくなるんですよね!
特に中央階段は外付けタイプ(校舎自体は一体化してますよ)で、その階段の構造部分がほぼ「窓」いっぱいだったので、それはそれは・・・眩しいくらいでした。
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既出ですが、図で説明するとこんな感じですね。
図の赤丸部分の所がちょうどトイレの壁側に相当する部分で、この地域だけがメチャメチャ暗いんです。それ以外はとても明るかったです。
こちらも既出ですが
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こんな感じでした。一般的な小学校と違って内階段ではなかったのや、そんな窓ばかりの校舎・・・そんなかなり前衛的な部分がそこかしこにあって、それはそれで面白かったですね。
あっ!それに前にも言いましたが、昭和30年代の建築、しかも小学校の校舎・・・なのに、「ダストシュート」が装備されてましたからね!この校舎には。
正に近未来って感じでしたが・・・残念ながら「給食の残飯」をそこから投げ捨てるヤツがいて・・・使用禁止に追い込まれてしまいました(泣)
アバウトな「昭和」には・・・早すぎた装備だったのかもしれません。

さて、もう1枚・・・今度はまた「白亜校舎」からですが・・・
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のどかな、とある日・・・と言った感じでしょうか?
なにやら「映画」の1シーンでも観ているような?ここはセットか?と思えてしまうくらいなロケーションですが、紛れも無く「成徳」の白亜校舎正面玄関前です。
こんな「絵に描いた様な」建物があったんですねぇ~本当に。

最近ふと思ったんですよ。
私こうして「成徳」の応援ブログを開設しておりますが、掲載する画像など、自身で帰省の際に撮影するか、あとはほぼ「成徳小学校創立120周年記念誌」からの抜粋・引用と言う形をとらせていただいてます。

ある時から「カラー化」・・・いわゆる「着色」と言う技法を知り、専用ソフトを導入しつつ、ちまちまシコシコと作業をしております。

モノクロの世界で残された各画像ですが、これに色が入った途端に急に隔てていた距離感?が縮まるような?そんな錯覚に陥ります。
もちろん、白黒画像ならではの「魅力」と言うのもあるんですが、大抵古い写真というと「白黒」・・・本当に遥か遠い昔の出来事のように感じてしまいますよね?

ところが、これに色をつけてそれらしくすると・・・瞬時に「昨日のこと?」と思えるほど身近に感じれるんですよね。

まあ素人のお遊びみたいなもので、「出来具合」・・・は、ご愛嬌で!ってとこですが、最近行き詰まってるんです。

なんて、そこまで深刻な話ではないのですが・・・
つまり、元々の「色」が判らない!んです。

どういう事かというと、今現在「自動着色」の技術の進歩は目覚しく、手元の白黒画像をあるサイトで変換作業をするとプログラムを駆使してそれら白黒画像を「自動」で「着色」してくれるんです。
もちろん、プログラムを使うのに「お金」は要りません、無料です。
なので、私も今まで掲載している各種白黒画像などは大抵がまず「自動着色」に掛けます。
ところが?技術の進歩は目覚しい・・・と言いつつも、やはりまだ発展途上の技術でもあるわけです。
また、その元画像のキャプチャーのやり方次第で、光の当たり具合とかそう言った些細なコトが即影響を及ぼして、変に露出が高かったり、逆に暗くなりすぎて再現不能になったり・・・と必ずしも好成績で再現されるわけではありません。
物によっては驚く程綺麗にカラー化されるものもあれば、殆どセピア色になっただけじゃん?って代物まで・・・正に玉石混合状態ですね。
今までの私の経験では概ね50%の成功率と言ったところでしょうか?

そして、自動着色を掛けて出来上がった物を部分修正で着色するか?または殆どカラー化されてないものの一部だけ活用して、残りをほぼ全て手作業で着色していく・・・と言う感じで作業を行っています。

部分修正だと、概ねの色の再現はされているので、一部被って変色している部分や、再現されなかったところを補色したり・・・と言った作業で済むのですが、ほぼ全面手作業と言う時に一番困るのが・・・元の色は何色?と言うところです。

例えば例の「京都橘高等学校吹奏楽部」の項で既に既出ですが、こちらの画像。
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こちらの白黒画像は元画像となります。
「オレンジの悪魔」と異名をとる「京都橘高等学校吹奏楽部」がまだオレンジのユニフォームが誕生する以前の頃の画像です。
これを「自動着色」サイトでプログラムで再現(カラー化)すると・・・
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こんな感じになります。
一応着色はまんべんなく出来ておりますが、全般的にセピアチックな感じです。
此処で、まず着目するのは「既知」の色の物を選別することになります。
この画像で言うなら、絶対にわかっている「色」のものは京都橘のスーザフォンの「白」・・・これだけは確実に判明しています。
では、この画像の中でこの「スーザフォン」の再現色に近いものは・・・となると、あとは「服」「帽子」「ソックス」などとなってきます。
あと、右端のスネア(小太鼓)についてる「紋章」のようなもの、恐らく京都橘の校章?だと思うのですが、マーチングのときのペナントでは「赤」で表示されてますが、色合い的に「赤」ではないようなので、「白」もしくは「黄色」のように想像出来ます、ただスーザフォンの再現色に比べて若干曇っているので、恐らく「黄色」と判断しました。
そのような感じで作業を進めていきますが、その結果がこちら。
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こんな感じです。
あとは、後方にいる他校?のユニフォームやら、観客席のお客さんの服装などはもう・・・「なんちゃって」です。つまり全て想像・デタラメですね(笑)
ただ不思議なのは、全く違う色を着色すると・・・どう表現していいのか判らないのですが、いわゆる「ノリが悪い」?みたいな感覚は感じます。
おそらく、そのもの又は近似色だった場合はすんなりと違和感なくノリますが、「ホントにこれか?」って思うような色だと妙に「ノリ」が悪いなぁ~と直感的な感覚がありますね。ここはソフトを使ってデジタルな部分なのに不思議なモノを感じます。

と、長々と説明しましたが、最近ちょっと行き詰まっている感がありまして・・・
実は冒頭に掲載した画像なんですが、「冬空に映える白亜校舎」なんですけど、私この「成徳小学校」の卒業生ではありますが、実際にこの「白亜校舎」の実物をこの目で見た事がないわけです。
当たり前ですよね!私が生まれた年に取り壊されてしまったわけですから。
となると?校舎などの「なんちゃって着色」をする際に一番困るのが「元の色」なんです。
白亜校舎の画像を見たらたとえそれが白黒画像でも大体の配色は想像は出来ます。
それに、在校中には既出ですが「旧西校舎の検証」などでも散々紹介した「旧・西校舎」がありました。
「白亜校舎」時代の校舎群で唯一残った1棟だったので、屋根瓦の色や、外壁の色などは大いに参考になるのです。
ところが、やはり「白亜校舎」と「旧・西校舎」では元々の造りが全く違い、特に困ったのが「窓枠の色」なんです。
「旧・西校舎」はどちらかと言えば、ごく一般の家庭と同じような造り(当時)の窓枠なのですが、「白亜校舎」の造りは○○式とかどういう表現かはわからないのですが、明治期の建築にはよくあるタイプの造りになっているのですが、その窓枠の色がさっぱりわからないのです。
でも、白黒画像でみても外壁と窓枠ではあきらかに「色が違う」んです。
と言う事は、この窓枠にもちゃんと何某かの色が塗られていた・・・となるわけです。
さて?それが何色なのか?・・・が実物を見た事もない私にとっては最大のネックになってきたわけです。
「白亜校舎」の画像はまだまだ膨大にあるのですが、逐次「カラー化」はしているのですが、いつも全てその最終段階に来て行き詰まるんです。
そう、「窓枠」に色が付けれないんです。判らないから。

「それこそ、そんな時こそ「なんちゃって」でいいじゃん!」って事になるんでしょうが、わたし的には「白亜校舎」の着色は可能な限りオリジナルに忠実にありたいと思っているんですよ。

で、此処にきて、いつもの「我が父」の登場です!(笑)
まあ、なんてったって「戦前」の「成徳卒業生」ですからね!!

で、先日ちょこっと日帰りで帰省した時に聞いてみたんです「窓枠の色」を。

「あぁ、濃い灰色だわ」と即答。

って事で、窓枠問題のあっさり解決で、冒頭の窓枠もその通りに着色して完成!
今後の「白亜校舎」着色においては窓枠に苦労させられることはなくなったわけですが・・・。

でも、よく考えたら・・・こういうのって微妙ですよね?

「濃い灰色」ってどんな灰色?

そう思いませんか?だって、濃い・薄いの判別・判定なんて個人の主観で全然違いますからね!数値的に「白」と「黒」の混合率が○%と○%が「濃い灰色」とかってはっきり決まってるなら別ですが、それすら極めて曖昧な基準で決められているのでは?と思うのです。
例えば、白が30%黒が70%の比率で混ぜられているものだけが「濃い灰色」である・・・って無理ですよね?
じゃあ白が20%で黒が80%だったらどんな灰色って表現するの?って事になります。
「もっと濃い灰色」?・・・バカな(笑)
まあ、そう言った色の基準に関する「工業規格」のような物は多分あるとは思うのですが、別に工業製品を作っているわけではないので、大体の感覚でいいんです。

あと、「白亜校舎」と通常呼んでますが、果たしてどの程度その白亜は「白かった」のか?も微妙なところなんです。
白黒画像で見ても、全てが「白っぽく」写ってます。
しかし、その「白」はどんな「白」なのか?は全く不明です。
これも我が父に聞いたのですが、「若干茶色掛かった(白)」だそうで・・・でも・・・それってどんな「白」なんよ?ってな事になるわけです。

そして、色もそうなんですが、先日「旧西校舎の検証」などでも「旧・西校舎」の事を色々調べたりしてある程度の結論が出ました。
(校長室だとか資料室はどうなんだ?って言ってた問題でした)

そして、実はなんと!
先日の日帰り帰省の際に、父に聞いたんです・・・旧・西校舎の「階段」の件を。
すると驚愕の事実が!

「端っこに階段があったぞ」・・・と。

「えっ?」って感じですよ。

それで、「それは外階段だったの?」と聞いたのですが、「いや内階段だったわい、間違いない、よく覚えとるだわ!そこで同級生と大喧嘩したけんな」

・・・だそうです。

あれれれ???・・・これはまた妙な展開になってきたぞ!って感じで。
その後再度「旧・西校舎」の画像や、先日の見取り図などを照らし合わせたりして再検証している最中ですが、当初もしかして南校舎時代にはそれぞれ両端に内階段があったのを、移築して「西校舎」として活用する際にサイズ的な問題で、そのままでは移築出来ないから両端の外階段を撤去して、代わりに中央玄関&階段を増築して、我々がよく知る「旧・西校舎」の姿になった・・・つまり、南校舎時代と比べて若干校舎の全長が短くなったのだろう、だから西校舎になった時には「内階段」は存在しなかった・・・と言う仮説を立てたのですが、「南校舎時代」の画像をどうみてもそんなスペースがないんですよね?(内階段分の)。
南校舎時代と西校舎移築後の画像をくらべても造りは全く変化なしですからね。
これは一体・・・?
そうなると考えられるのは「父の勘違い」?
父はその階段(方角的には東側)で同級生と大喧嘩したそうで、それでよく覚えているそうです、まあそんな事件があれば忘れませんよね?普通は。
ただ、内階段(室内にある階段)だと言っているのですが、こちらの図をご覧下さい
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こちらは先日既出の見取り図ですが、
この黄色い四角の位置に(おそらく2階建て)建物があるのです(東西に1棟ずつ)
見取り図的にも「階段」の表示がしてあるので、まず間違いはないと推測するのですが、赤い四角の位置が父が主張する階段(内階段)の位置です。
若干の位置的ズレがあるのですが、一応黄色い四角も東西に分かれて存在しております。
ただ、この黄色の四角い建物が「階段棟」(仮称)として、では実際どの校舎と連接・連結されていたのだろうか?と言う問題にぶち当たります。
図で示してあるように、南校舎または白亜校舎本館、それとも両方かも?・・・と疑問点がドンドン湧いてきて・・・。

ただ、この建物・・・普通に屋根の付いたミニ校舎のような建物で、もし南校舎(旧南校舎)と棟続きで連結されていたとしたら、感覚的には内階段という意識を持ってもおかしくはないかも?・・・と思うわけです。(建物なので)

ごく一般的に「内階段」って言うと、中央か端っこか、とにかくその建物と平行した位置(同一建物内)に存在するものだという認識がありますが、もしかしたら上記見取り図にあるような少しオフセットされた位置に別棟の階段棟(仮称)のようなものが連結されていたとしても、繋がっていれば正にそれは「内階段」と言う認識になるのでは?と思ったのです。

なので、父の言う「内階段」と言うのも、父的にはごく当たり前にそのオフセットした「階段棟」(仮称)の事を言っているにも関わらず、そう言った事を知らない私のような一般論的な「内階段」感を持ってる人間には「えっ?どこにあるのさ?内階段ってスペース無いぞ?」・・・と言うのが真相なのかもしれません。

と、このようにたかが「階段」ひとつとっても次から次へ疑問だらけ!なのですが、此処に来てこのような事態を鑑みてあるひとつの杞憂を感じたのです。

これらの知識・事実はちゃんと後世に伝えることが出来るのか?・・・と。

「何をそんな、大袈裟な!」と思われる多くの卒業生諸氏がおられると思います。

が!しかし・・・ホントにそう断言できますか?
だって、白亜校舎の窓枠の色すらつい先日まで全く知らなかったんですよ?
私が知らないって事は、ほぼ今50代中盤の人以下はまず知りません。
私には5コ上の姉が居ますが、その姉も昭和41年入学なので、おそらく白亜校舎とは被ってません、と言う事は姉世代ほぼ60歳目前の方々までは全く「白亜校舎」とは接点がないわけです。
恐ろしい事態だと思いませんか?小学1年生の6歳から卒業した平成30年時点で60歳までの人全員が白亜校舎とは一切接点がないのです。
つまりまるで「知らない」わけです。

かろうじて覚えている、知っているのは60歳初頭からあとはお迎えを待っている(甚だ失礼ですが)世代のご老体の方々だけです。

医療の進歩で、長寿世界一になった・・・それはまことに結構な話ではありますが、だからと言って不老不死になったわけではありません。
いずれお迎えはやってきます。
ならば、今ご存命の内に聞いておかなければなら無い事、確認しておかなければならない事、白亜校舎の窓枠の色、白亜の白ってどんな「白」?・・・こんな部外者からすればどうでも良いような些細な事柄でも、知っている人が全て居なくなれば…永遠に知ることは出来なくなるわけです。

「別に窓枠の色がわからなくても成徳は困らんわい!」

と言う方が殆どだろうと思います。確かに実質的に困ることはないでしょう。
でも・・・いつの日か、誰かが何かの機会に・・・

「昔の白亜の校舎の窓枠ってどんな色だったんですか?」
「屋根瓦だったんですよね?黒だったんですか?それとも山陰だから石州瓦って事で赤ですかね?」

これから先の未来に、何かのプロジェクト・イベントなどで仮にそんな質問が出る時が来た時、もはや誰も答えられない事態になります。

白亜校舎の正確な図面・・・多分、取り壊す時に請け負った建設会社などにはその時の実測図なりが残っているやもしれません。
が!しかし、そう言った公式な設計図だとか実測図とかそういう問題ではなく、実際にそこで集い、学び、廊下を走った生徒達が感じた母校の空気感・・・実は当時校舎の裏に秘密のスペースがあって、そこで当時密かに捨て猫にエサをやってたとか(まあこれは極端な話ですけどね)・・・そんな生徒にしかわからないような些細な事柄もちゃんと記録しておかなければ、歴代校長の名前しか判らない学校史・・・だけになってしまいますよ?。

残された時間は限られてます。
私の父も含めて・・・。
だから、今この時が惜しい。
もっともっと色んなところの色んな話を聞いて留めておかないと、白亜校舎の壁の色は・・・「黒」?なんて事を言い出すヤツも現れるかもしれません?。

どこかで聞いた話です。
外国に行くとよく「日本と言う国はどういう国なんだ?」と質問されるそうです。
が、多くの日本人はうまく答えられないらしいです。
するとその様子を見た外国人は皆そう言った人間を相手にしないそうです。
何処までホントか嘘なのか・・・は不明です。
しかし、「自分の国の事をちゃんと答えられない(説明できない)ヤツなんて信用できない」って事らしいですが、ある意味的を得た考えだと私は思います。

そんな事はない!と思う方もおられるでしょう、しかし会社等の採用面接でも同じでしょ?
「何故我が社を受けられたんですか?」と聞かれて、ちゃんと答える事が出来ない奴を積極的に採用しますか?
そんなヤツとは一緒に仕事は出来ない、つまり信用できない…と言う事になるわけです。
小学校も似たようなものと思うのです、母校自身が己の由来・来歴をちゃんと正確に、詳細にわかっていなくてどうするんだ?と。
だから、しっかりと小さな事も含めて記憶も記録も採っておけ!といいたいのです。
そのためには卒業生も自身の父・母、祖父母から積極的に話を聞きだして、後世のためにその記憶・記録を成徳に残して欲しいなぁ~と思った次第です。

大袈裟な話になりました、たかが「窓枠」の色です。
でも、その「窓枠」の色がわからなければ、着色は完全再現は出来ないのです。
これがどういう意味なのか?

わかる人は是非行動してください。

※ほら、だから今回は「京都橘」は出てきませんよ!って言ったじゃん(笑)